金曜日「帰納法的分析(もしくは分散)」7



「杏、起き上がれる?」


 ポチが手を差し出す。

 幽霊はもういなかった。

 

「交差点以来、二度目だね、こんなことになるのは」


 私の体は教室側の廊下にあった。

 吹き抜けに落ちかけた私を、ポチがぎりぎりのところで首を掴み後ろに引っ張ったのだ。

 落ちることは避けられたものの、ポチも加減せず引いたようで私たちは反対側の壁に叩きつけられる格好になってしまった。

 

「ちょっと足を捻っただけ。大丈夫だから」


 ショックからかじんじんと耳鳴りは少しするけれど、痛みはないようだ。

 

「こういうときにこそ素直になればいいのに。けがしてない?」


 うるさい、心配するな。

 

「ん、どうしたの?」

「ばっ」


 ポチが腰をかがめてこちらを覗きこんでくる。

 

「ば? 本当に大丈夫? どこか打った? 動かさない方がよい? 起こそうか?」


 そのままの姿勢から手を私の背中に回す。

 

「ななななな」


 拒否をする間もなくふわりと体が浮く。

 ポチに抱えられ、身動きが取れない。

 

「少し黙ってて。動くと体感で重くなる」


 右へ大きく傾いたあと、ポチが体勢を戻す。

 反動で顔がすれすれまで接近した。

 

「ちょ、ちょっと、どうするの」

「保健室まで連れていくから」


 よっと、と声を出して、歩き出す。

 

「あああ、人が来たらどうするの?」

「どうするの、って、けが人運んでいるんだからどうもこうもないだろ」


 平気な顔でポチが答える。

 ポチが言うことはもっともだけど、この状況で私をけが人だと思う人がいるなんて保証はどこにもないのだ。

 

「誤解されたらどうするのよ」

「誤解? どういうこと?」


 わからないのかわからないふりをしているのか、ポチは気にもしていない。

 

「馬鹿!」

「けが人運んで馬鹿呼ばわりされるなんて」

「大丈夫だってば降ろして」

「そう見えるだけだよ、頭打ってるかもしれないだろ」


 私の反論はことごとく却下される。

 

「あ、ぽ、ポチ、その手」


 私を抱えている右手から、ぽたりと落ちるものがあった。

 

「ああ、ごめん、制服についた?」

「そんなことじゃない! けがしているのはポチじゃない!」


 自分のけがよりも、私の制服に血がついてしまうことを気にかけている。

 

「ちょっとぶつけただけだよ、そんなに大した傷じゃない。ついでに消毒してもらえれば十分だ」

「で、でも」


 どちらが重傷か、傍目に見てもわかる。

 

「傷は治るよ。治らない傷なんて、そんなに多くはない」


 私に言い聞かせるように、もしくは自分自身に暗示をかけるように、先輩が傷は治らないと言ったのとは対照的にポチがささやく。

 その息でさえ顔に触れるのを感じる。

 今までで最大の接近かもしれない。

 そう思うと急に恥ずかしくなって反対側を向いてしまう。

 

「でも、跡が残ったら?」

「消えないなら消えないなりのやり方があるさ。それとも責任を取ってくれる?」

「ばっかじゃないの!」

「そう、それくらいの元気がないと」


 冗談に返した私を見て、ポチは満足そうだった。

 

「全く、どうして心配ばっかりかけるんだ。行動が勝手すぎる」


 階段を降りながら、ポチがため息混じりに言う。

 保健室は一階だ。

 

「そんなの! 私の勝手でしょ! ほっといてよ!」

「いいや、ほっとかない。ほっとくわけないだろ」


 強く、断言する。

 

「……なんで」

「最初に約束しただろ、僕は君を助けるんだ」


 確かにその約束はした。

 でもそんなものに何の意味もない。

 ただの口約束だ。

 

「それだけ?」

「え?」

「ううん、何でもない」


 でも、もし、本当にそれを守ってくれるなら。

 

 きっと、そんなに悪くない。

 

「私は、特別じゃないから」


 先輩から言われた言葉を思い出す。

 

「はあ、何言ってるんだ。やっぱり頭打ったのか」

「だって、だって」


 動きを止めて立ち止まる。

 一階は近い。

 ポチが私を抱えなおして小声で話す。

 周りに誰もいないのに、それは私以外には聞こえない声だった。

 

「杏は、特別だよ」

「え、なに?」

「特別じゃない人間なんて、どこにもいない」

「そんなの、ずるい」


 私は彼の袖をぎゅっと掴む。

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