第二週目「先生と箱とねずみ花火」
第二週目「先生と箱とねずみ花火」1
月曜の夜。
部屋でのんびりと音楽を聴きつつ宿題をやる気なく進めているときだった。
机の脇に置いておいたケータイがQQLの『万能ガールは恋をする』を流す。
反射的にケータイを掴み、大きく大きく呼吸を整え、ゆっくりと、慌てて取ったと思われないように、通話ボタンを押す。
この着信音が流れるのはたった一人からしかない。
「お兄ちゃん?」
「久しぶり、杏」
「うん、久しぶり」
少し低めで、落ち着いた声。
ああ、なんて、懐かしい声だろう。
どこかに降り積もっていた憂うつなんて、簡単に吹き飛んでしまったかのようだ。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「え?」
「電話してくれるなんて、珍しいから」
「ああ、そうだったかな。お父さんには連絡をしているよ」
普段お兄ちゃんとはメールしかしていない。
それも毎日というわけでもない。
仕事が忙しいのは十分にわかっていたし、それこそ仕事が忙しいのは私のせいでもあったから、迷惑をかけたくなかった。
「でも、たまにはいいんじゃないかな。悪かった?」
もう、なんてことを言い出すのだろう。
「うん、悪いなんて、ないから」
お兄ちゃんは私の実のお兄ちゃんではない。
それどころか血縁関係は一切ない。
彼の家系と私の父親の家系に親交があったくらいだ。
彼には小さい頃から祖母しかいなく、中学生のときにその祖母が亡くなると他に親族のいなかった彼の後見人という立場に私の父親がなったのだ。
「そっちはどう? 東京はもう大分暑くなってきたよ」
「うん、まだ涼しいくらい。天気はあまり良くないけど」
「僕がいた頃から曇りが多かったからね、残念だけど、それは仕方ないよ」
私が住んでいる街も通っている高校も、そして部活もお兄ちゃんと同じだ。
彼は高校卒業までこの街で過ごし、大学に進学してから東京にいる。
卒業後は私の父親の事務所で働いている。
今は父親がこっちに来てしまっているので、実質的な管理者として事務所を切り盛りしているのだ。
「うん」
どうしても、うまく話せない。
話したいことはいっぱいあるはずなのに、メールでなら何度も打ち直しできるのに、リアルタイムだと頭が真っ白になってしまう。
「体は? 体調崩してない?」
「うん、大丈夫だよ」
「良かった。じめじめしてない分過ごしやすいかな。でも無理は禁物だよ」
「はい」
「ああ、それで、なんだけど」
「うん?」
「そっちに僕の知り合いが臨時教員で行くらしいから、それを伝えておこうと思って」
「え?」
「知ってる?」
「うん、でもまだ授業は受けてないから」
「そう」
「でも、明日は一限からだから」
桂花が言っていた美人の臨時教員がお兄ちゃんの言う知り合いだろう。
「ちょっととっつきにくいかもしれないけれど、本当は見た目よりも素直な人だから仲良くしてね。高校のときのクラスメイトなんだ」
「うん、わかった」
お兄ちゃんにそんなふうに言われて仲良くしないわけなんてない、とは言えない。
なるべく素っ気なく、変に思われないように返事をする。
「それから、急だけど、来週そっちに行くことになったから」
「え!」
お兄ちゃんが、来る?
「ちょっと用事が出来てね、仕事も一段落しそうだし丁度良いと思って」
「来週のいつ?」
胸の中がざわざわする。
「えーっと、週末は無理そうだから、来週の水曜日か木曜日かな」
「泊まるの?」
「うん、ああ、いや、さすがにホテルを取るよ。家はもうないし」
東京に進学するときに、彼は大事なものだけを私の父親に預けて、それ以外は処分してしまったらしい。
彼が住んでいた家も残していても管理できないということで売ってしまった。
東京に出てきたときはトランクケース一つ分だけだった、と父が言っていた。
「そんな、うちに泊まればいいのに」
今のは、かなり自然に言えたはず。
永遠にも思える沈黙があって、彼が残念そうに言う。
「そうしたいのは山々だけど、ちょっと用があってそういうわけにもいかないんだ」
「そう」
「ごめんね」
「いや! うん! 大丈夫」
しまった。
ちょっとはしゃぎ過ぎたかな。
「それじゃ、あまり夜更かししないように。またメールするから」
「はーい」
「おやすみ、杏」
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
ツーツー、という音をしばらく聞きながら、じっと動かずに余韻に浸る。
「ばたーん」
キャラでもなく効果音を声に出して、ベッドに倒れこむ。
お兄ちゃんに会うのは本当に久しぶりだ。
こっちに来てからは一度も会っていない。
どうしようどうしよう。
にやけ顔が元に戻せなくなりそう。
来週が待ち遠しい。
その間、どんなに嫌なことがあっても笑顔で耐えられそうだ。
ああ、もう!
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