第四週目「ロッカーと解答とパラシュート花火」5


「よう、正義の味方。一歩、いや一週間遅かったかな?」


 ロッカー置き場に到着した私達を待っていたのは、一ノ瀬先輩だった。

 大きなヘッドフォンを首に下げている。

 ポチが私達の前に立ち、先輩に確認をする。

 

「二つ目のカギをかけたのは先輩ですね」


 それは敗北宣言だ。

 

「ああ、そうだよ」


 先輩は気楽に答える。

 

「いつ気が付きました?」

「そんなことに意味はないな。大事なのはお前は気付かなかった、ということだ」

「……そうですね」


 ポチと先輩の交わす言葉の端々にとげがある。

 

「ヒントは受け取ってくれたかな、杏ちゃん?」


 声ではなく、首を揺らして返事をする。

 

「そうか、それはよかった。

 あとでカギもあげよう」


 愉快なことでもあったかのように先輩は上機嫌だ。

 

 私が受け取った南京錠は最初にかけられたもの、つまりは絹木さんのものだ。

 そのカギを今先輩が持っているはずもない。

 

「昔のお前ならもっと早く解けたんだろうが、もう無理だな」

「買いかぶらないでください」


 わざとらしく溜息をついた先輩に、ポチが肩をすくめる。

 二人の間だけに存在するやり取り。

 

「張り合いがないな。本当に俺を出し抜いたやつか?」

「一度だって出し抜いたなんて思っていませんよ」

「ふん、そうか。まあいいさ、じゃあ、開ける前に主催者に登場してもらうとするか」


 先輩が、ロッカーの物陰に視線を移す。

 

 ゆっくりと彼女が姿を現す。

 絵具で汚れたエプロンをかけ、不健康そうに眼の下を黒くしている。

 

 もちろん、絹木先輩だ。

 

 私達には興味がないのか、かつての後輩である柏木さんですら忘れてしまっているのか、じっと先輩だけを見つめている。

 

 ちらりと柏木さんを横目で盗み見る。

 潤んだ大きな瞳はどうとでも取れる複雑な表情をしていた。

 

「開けていいんだな?」


 先輩の言葉に、絹木さんは無言でうなずく。

 

「それじゃあ」


 先輩がポケットから小さなカギを取り出す。

 自分でかけた南京錠を自分で外す。

 南京錠を取り外し、ギシギシと言わせながら古びたロッカーを開ける。

 

「なんだ?」


 何かに手を入れて掴んだのは片手で収まるくらいの箱だった。

 正方形の箱は、黄色い包装紙でラッピングされて、真っ白いリボンで結ばれていた。

 

「誕生日、来週だったから、プレゼント」

「え?」


 思わずポチが聞き返してしまうのも無理はない。

 柏木さんも口を開けて何かを言いたそうにしている。

 ひょっとしたらポチと同じことを言っていたのかもしれない。

 

 そんな空気をさすがに感じ取ったのか、ぽつりぽつり絹木先輩が話し始める。

 

「普通に渡したんじゃ……、きっと、つまらない、って言うから」


 絹木さんは、小声で、でもよく聞こえる声で、言った。

 

「どうして短冊に?」

「そうすれば、あなたが動くと思ったから」

「僕が?」


 こくん、と彼女。

 短冊の暗号に気がついたのは私だったけれど、絹木さんは最初からポチを狙い撃ちしていたのだ。

 

「あなたが動けば、きっと、興味を持つから」


 誰が、とは言わない。

 

「僕達が先輩より早く答えを出してしまったら?」


 ポチが質問する。

 

「それならそれで、仕方ないと思ったから」


 ポチの疑問にも、彼女は小声で目を合わせず答える。

 そうは言っても彼女は先輩が私達よりも先に到達すると思っていたはずだ。

 信じていた、と言い換えても良い。

 

「あなたは、彼と同じことを言ったから」

「同じ? ひょっとして、絵のことですか?」

「私のことに気付いてくれた。だから」


 はっきりとは言わず、曖昧に、輪郭をぼかして先輩がしゃべる。

 

「私は、確かめたかったの」


 彼女にとっては、やっぱり一ノ瀬先輩が最終的にクリアする予定だったのだろう。

 そんなことでここまで、と思わないでもなかったけれど、それを指摘することはできなかった。

 

 先輩は、あの日よりも前からポチのことを知っていた。

 たまたま私とポチがホールで彼女の絵の話をしているとき、ポチの言葉を聞いた。

 

 そして、ポチに『この絵が描きたかったのか』と問われたとき、目の前の人間が一ノ瀬先輩の言う『正義の味方』だということに気が付いた。

 

 だから、彼女は確かめたかったのだ。

 私が選んだ人は、私の選択した想いは、正しかったのだ、と。

 

 私達執行部はまんまとそんな彼女に翻弄されていたのだ。

 私達は、最初から最後まで、彼女の思い描くストーリー通りの行動をしていたというわけだ。

 

 今まで黙っていた柏木さんが、彼女に話しかける。

 

「それだけ、ですか」

「そう、それだけ」


 にこりともせず、絹木先輩が答える。

 本当に、それ以外に何の理由もなかった、と。

 言わば私達は先輩に仕向けられたとはいえ、勝手に参加して、勝手にゲームに負けたのだ。

 

「先輩」


 一歩、前に出たのは柏木さんだ。

 胸に手を当てて、意を決したように絹木先輩との距離をわずかに詰める。

 

「先輩、私のこと覚えていますか? 柏木くるみです。中学のとき後輩だった」

「覚えている。素直な絵を描く子。辞めてしまったの」


 彼女の言う『素直』というのは何を指しているのだろう。

 一ノ瀬先輩の言う肯定的な意味か、ポチの言う否定的な意味か。

 柏木さんが語る本来の絹木先輩の姿からしてみれば、ただ行儀の良いだけの絵を描く、という意味なのではないか。

 

「私、ずっと先輩のこと、尊敬していました。憧れていました。先輩のようになりたくて、いっぱい練習しました。でも、その、私、先輩の本当の、綺麗さだけではない、力強い絵を見てしまいました。それまで私は自惚れていて、先輩に追いつこうと思ってしまっていて、才能ってこういうのを言うのだと知ってしまって、それで」


 彼女の告白が場違いであることは、きっと彼女自身にも十分にわかっていただろう。

 

 それでも言わずにはいられなかったのも、わからないでもない。

 胸に詰められていた想いを吐きだした柏木さんに対して、絹木先輩はじめっとした重たい表情をするだけだった。

 

「『しまって』『しまって』か、まるで自発的じゃないみたいだな。そうか、それは良かったな」


 無言のままの絹木先輩の代わりに一ノ瀬先輩が嬉しそうに言う。

 言葉を向けられた柏木さんは不安と疑問を浮かべた。

 先輩の子どもをあやすような、褒めるような優しい声は、実際、そのままの意味であるはずがない。

 以前に私が向けられた、他人の心を鷲づかみする毒のある甘さだ。

 

「努力をしなくて済む言い訳ができて、良かったじゃないか」

「なっ」

「そうだろう? 才能? 冗談じゃない、才能があるやつがどれだけ努力していると思っているんだ? こいつがどれだけ毎日毎日同じことばかり考えているか、一度でも考えたことがあるのか? 最初から止める機会が欲しかったんじゃないのか? 大丈夫さ、誰も責めたりなんかしない。しょうがない、そういうもんだよね、って慰めてくれるさ」


 先輩はどこまでも楽しそうだ。

 

 痛烈な、相手をえぐる言葉に柏木さんはうつむいて、こちらからは見えない。

 肩に力が入り、下ろした手は震えているようだ。

 

 私にも、先輩の言葉は痛く響いている。

 彼女を助けなくては、という思いも、体が硬直してしまって何もできないでいる。

 なおも言葉を続けようとしている一ノ瀬先輩を無理矢理ポチが遮った。

 

「いい加減にしてください!」

「おっと、そうだったな、つい些末なことに気を取られてしまったな」


 先輩の弁解は、そのまま柏木さんの思いそのものが『些末』だと言っているのに等しい。

 

「何もかも下らないな」


 絹木先輩が息をのんだ。

 

 一ノ瀬先輩の手から小さな箱が零れ落ちる。

 自然落下をする箱は回転しながら土の上に落ちた。

 

「こんなことに何週間もかけたのか、馬鹿馬鹿しい」

「そんな」


 思わず声が出てしまう。

 視線は箱に固定されたままだった。

 きれいにラッピングされた箱は、衝撃で角がへこんでしまっている。

 

 間があって、絹木先輩が巣から落ちてしまった雛を救うみたいな丁寧な仕草で箱を拾う。

 しゃがんだまま先輩を一度だけ見て、何も言わず箱を抱えて数歩距離を置いた。

 

 彼女が後ずさる以外の音は、皆の呼吸が微かに聞こえるだけだ。

 

「一ノ瀬先輩」

「あ?」


 ポチが前に倒れこんだ、と思った瞬間、先輩が揺れた。

 バシン、と何かを叩き落としたような音がこの空間に広がった。

 

 一瞬のことで何が起こったかわからなかった。

 誰も言葉が出ない。

 状況を把握するので精いっぱいだった。

 

「やるじゃねえか、正義の味方。いつかの借りでも返しに来たか?」


 体勢を戻した先輩が左手で頬をさすりながら、吐き捨てるようにポチに話しかける。

 

「自分が何をしたかわかってるのか?」


 ポチが先輩の左頬を思い切り殴ったのだ。

 私達は動けずにいる。

 

「彼女の、彼女の気持ちを考えてください」


 勢いをつけたためか乱れている呼吸を押し殺すように、地面をかするような低いトーンでポチが答える。

 

「お前が言える立場じゃない」

「わかっています!」


 普段は出さないような大きな声でポチが返す。

 

 痛みが遅れてやってきたのか、先輩が舌打ちをする。

 頬が赤くなっているのが見てとれる。

 血は出ていないようだ。

 

 ポチは右手を硬く握り、まだ力をゼロにしていない。

 そんなポチを見て滔々と諭すように先輩は語る。

 

「いいや、わかってないね。人の間にずけずけと立ち入るもんじゃない。それでどんな痛い目を見た? 何を教訓にしたんだ? どうしてまだ続ける? いい加減懲りろ、正義の味方をしている暇があったら自分の問題に手をつけろ」

「僕のことは今さらどうでもいいじゃないですか、僕に構わないでください」

「説教でもする気か?」


 鼻を鳴らして、ポチを見る。

 

「そうじゃありません。そんなこと先輩だってわかってるんでしょう? 僕はただ」

「ただ、なんだよ」


 先輩がポチを挑発する。

 

「あんまりじゃないですか、こんなの」


 文脈も繋がらず、ポチが弱々しく呟く。

 

 ポチだって自分が当事者ではないことくらいはわかっているのだろう。

 それでも、彼は動かずにはいられなかっただけだ。

 

「どうした来いよ。理想を押しつけたいんだろ?」


 両手を使って大げさなジェスチャーをして、なおも発破をかける。

 

「気が済むまで殴れよ、その分だけ現実がのしかかるのはお前の方だぞ、正義の味方」


 含むところのある先輩の言葉に反応したのか、また一歩ポチが先輩に近づく。

 

「お前、その甘さで今度は誰を『殺す』つもりなんだ?」


 ころ、す?

 ポチが?

 ころした?


「もう止めて!」


 割って入ったのは絹木さんだ。

 先輩とポチの間に立って、ポチを見つめる。

 ポチの手が肩まで上がったところで止まった。

 ポチの陰になって、私から彼女の表情ははっきりとは見えない。

 

「どうして、先輩は」


 ポチは絹木さんに向かって話しているようだ。

 

 絹木さんが一ノ瀬先輩とポチにだけ聞こえる声で、短く何かをしゃべった。

 私と柏木さんまでは届いていない。

 

 静寂に包まれて、ポチの手が力なく垂れ下がる。

 時間が止まったみたいに、誰も呼吸していないみたいだった。

 どこか遠くで楽器の鳴る音や、ボールを蹴る音や、矢を射る音がする。

 私達の周りが粘着する空気をまとい、指を動かすことさえできないのではと思わされた。

 

「馬鹿しかいないのか。帰る」

「先輩!」


 絹木さんの声が響く。

 

「わ、私は、あなたのことが好き、です。一緒に、いたい、いさせて」


 先輩はそれを無視する。

 四人が彼に注目している中、歩き始めた先輩が角を曲がる前に立ち止まる。

 

「アリス」


 一ノ瀬先輩が振り返り、絹木さんを見ておそらくは彼女の名前を呼ぶ。

 驚いた彼女は迷いを見せて、それでも先輩の後を駆けていく。

 

 横に並んだ彼女が、彼に何か話しかけている。

 声はもう聞こえない。

 彼女の手には、先輩が地面に落とした土のついたプレゼントが握られていた。

 中身も私達にはわからない。

 

 あとには立ち尽くす私と、うつむいている柏木さんと、拳を握りしめるポチだけが残った。

 

 私は何も言えなかった。

 ただ、元々二人だけの物語に、私達は端役で参加していただけだ。

 選ぼうとする言葉は、どれも霧散してしまう。

 誰に、何を言えばいいんだろう。

 

 野球部がボールを高々と打ち上げる音がした。

 ポチが、私達を交互に見て、今までのことなんてどこにもなかったようなとぼけた顔をする。

 

「帰ろうか。それとも何か食べに行く?」

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