水曜日「クリームソーダ症候群」5



 教室にかけられた時計を見る。

 六時近い。

 

「今日はもう帰ろうかな、コタローだけだし」

「コタロー?」

「猫、スコティッシュフォールド。東京から連れてきたの」


 今日は家に誰もいないから飼っている猫に食事をあげる必要がある。

 そろそろあげないと、飢えて転がってしまいかねない。

 

「猫がいるんだ」

「そう、私の家族。写真見る?」


 折り畳みのケータイを広げて、写真フォルダを開く。

 最近のベストショットである、ガラステーブルの上に乗っている写真を見せる。

 しかめっ面で、折れた耳を頭にくっつけるようにしてどこか空をおぼろげに眺めている。

 

「これは、ずいぶん、球体だね?」


 ポチが語尾を疑問形にしつつ、ケータイを見つめている。

 

「失礼ね! ちょっと太り気味なだけよ」

「いやいやいや、これヤバいでしょ。ネコ科の限界超えてるでしょ」


 伏せていると明らかにわかる。

 下半身がもっちりと丸くなっているのだ。

 コタロー自身はその重みを気にしている様子が一切ないのが怖いくらいだ。

 

「そんなことないのに。食事もあんまりあげてないはず」

「だとしたら何で太るんだ、持ち運べないだろ……」

「家猫だから大丈夫よ。何かあればカートで運ぶから」

「そんな問題なんだ……」

「お父さんは前からそんなに家にいる方じゃなかったし、私にとっては弟みたいなものよ」


 お母さんはもういないけどとは言わなかった。

 もちろんポチも聞こうとはしなかった。

 

「ポチは?」

「兄貴がいるよ。東京で働いている、たぶん」


 それはまたずいぶんな適当具合だ。

 

「もしかして、仲が悪いの?」

「どうだろう。最近話もしてないからなあ」

「親は?」


 何気ない質問に、ポチは、少し考えあぐねているみたいだった。

 

 これはちょっと深入りしすぎたかな。

 私も、この質問をされると一瞬戸惑ってしまう。

 

「親はちょっと遠いところにいる。行こうと思えば行けるけど、向こうからは来ないかも」

「じゃあ、一人暮らしなんだ」

「まあね、一軒家だけど」

「今度、料理作りに行ってあげようか?」

「冗談でもやめてくれ」


 私の親切心を、パタパタと右手を振っての拒絶。

 ついでに呆れ顔だ。

 

「こう見えて、料理は上手いんだから」


 お母さんがずいぶん前に入院してから、二人分の家事は何でもこなすようになっている。

 大抵の料理ならレシピを見なくても作れる自信はそこそこあるのだ。

 

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあなによ」


 こめかみをかきながら、言いにくそうに、「一応、これでも男だから」とぽつりと言った。

 

 静寂が広まる。

 

「へえーへえー。うんうん、ポチも案外普通の男の子だった」


 意外というか、それはまあ当然というか。

 

「そうだよね、気がつかなくてごめんね」

「いや、そんな、かしこまって言われるようなことでもないけど」

「見られたくない本とかDVDとかでいっぱいだもんね」


 私にだってそれくらいのデリカシーはある。

 見て見ないふり、ということもできる。

 

「そういう意味じゃないよ!」

「なーんだ、がっかり」

「持ってて欲しかったのか、欲しくなかったのか」

「どっちでもいいけど。ポチの反応が面白ければ」


 持っていてもそれを問題視するような心の狭い私ではない。

 

「人をそんな風に扱わないでくれ」

「じゃあ、部屋が汚いとか?」


 勝手なイメージで男の子の一人暮らしは汚いものだというのがある。

 もっとも何度か遊びに行ったことのあるお兄ちゃんの部屋は一人暮らしでも綺麗にしていた。

 あれは綺麗を通り越して物がないと表現した方が適切なくらいだった。

 

「そうでもないけど」

「そうなんだ。掃除好き?」


 かなり古臭い本でも平気で読んでいるところから、潔癖症というのはあり得ない。

 

「いや、ときどき勝手に掃除しにくる人がいるし」

「え? お手伝いさんとか」


 でも、それなら『勝手に』と表現はしないか。

 ポチは言いあぐねているようだった。

 

「何よもったいぶって、まさか彼女でもいるわけでもないくせに」


 それは今までの会話から推測できる。

 もしいたとしたら私と放課後こんなことをしているとは思えない。

 ポチは言いにくそうに、ぼそりと「芹菜がたまに来るから」と言った。

 

「……なにそれ」

「いやいや、幼馴染だからだよ、深い意味はない」


 慌てて弁解する。

 深い意味ってなに?

 高校生の異性が、勝手に上がりこむ深い意味。

 

「……不潔」

「なんでそうなるかなあ」

「最悪!」

「ちょっと、杏さん」

「私にはダメダメ言って、なんで紫桐さんならいいわけ?」


 相手によって態度が違いすぎるのだ。

 それを怪しむのは当たり前だ。

 

「だから幼馴染だからだって」

「あー、そう、そうですね!」


 今更何を言っても、言い訳じみている。

 

「付き合いが長いんだから別に変じゃないだろ」

「変、絶対変」

「変じゃないって」

「じゃあなんで、さっき言いにくそうにしてたわけ?」


 そんなの変に決まっている。

 

「それは……」


 私の質問に、ポチは答えられない。

 

「ふうん、そうなんだ、そういうことなんだ」

「何だよ、それ」

「別に! 言ってくれたら良かったのに!」

「ちょっと待ってって」

「私、もう帰るね」

「何にそんなムキになってるの」

「ムキになってなんかない!」

「小学生かよ」


 腕を掴もうとするポチを、払いのける。

 

「ばっかじゃないの! ムキになるわけないでしょ!」

「なってるよ」

「うるさい! もう帰る!」

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