火曜日「A sleeping spitz」2



 昼休みになり、自分で作ってきたお弁当を手早くのどに押し込んでポチと席を立った。

 気合が入っているのかわからない手つきで本を流し読みしていたポチに「お昼は?」と聞くと、「あまりお昼はお腹がすかないんだ」と返ってきた。

 もしやダイエットではと想像をしてみたが、ダイエットが必要な体型には見えない。

 むしろ牛乳を飲むべきだろう。

 

 目線で食べ終わったことを伝え、それを確認したポチが立ち上がる。

 

「音楽室だっけ?」


 ポチが微かにうなずいて歩き始める。

 

「あ、待ってて」


 自分の赤い手帳を掴み、ポチの後を追う。

 

 教室を出てすぐ左手に見える東階段を上がる。

 最上階の四階まで上がり中央廊下を歩く。

 左が三年生の教室で、右にすっぽりと抜かれたように吹き抜けがあり、一階まで覗き込むことができ、その吹き抜けをぐるりと囲むように廊下がある。

 どの階でも吹き抜けを一周できるようになっていて、吹き抜けの向こうも教室がある。

 凸の真ん中が吹き抜けになっているようなものだ。

 ふるふると体を震わせ「落ちそうで恐いな」と独り言を漏らすと、ポチがこれも独り言のように「一番危ないのは、十メートルくらいだ。階数でいうと、三階くらい」と言った。

 

「どうして?」

「落ちても大丈夫そうな錯覚がするから。でも実際には半回転して頭から落ちる距離。地面がコンクリなら、三階以上は致命的だよ。確実ならそれ以上がいいけれど」

「確実?」

「確実に死にたい、なら。でも、後遺症が残ったほうが辛いだろうね」

「ポチ、いつもそんなことを考えているの?」


 ポチは私の右前を、半歩先に歩いている。

 うっすらと左頬が見えるくらいの位置だ。

 私が息をのんだのは気がついていないだろう。

 

「考えられることは何でも考えている。それとやりたいかどうかと、やるかどうかは別問題だ。少なくとも、今ではない」


 ガラガラと背後から音がして私たちの間を通っていく。

 カートの上に袋を載せた二人組だ。

 一人は白衣を着た男子で、もう一人は軍手をつけた女子だ。

 

「なんでこんなもの一つ買うのに許可をもらわないといけないわけ?」

「まあいいや、とっとと承認をもらってこよう。それよりどこに置いておく?」

「生物部のあんたのところの方が使う量多いんだから、そっちで保管しておいてよ」

「しょうがねえなあ」


 そして二人は執行部の前で止まる。

 女子が前に立って、威勢良く「たのもー!」と言ってドアを開けて、二人はカートごと吸い込まれていった。

 

 私とポチは首をひねりながらそのまま執行部の部室を通り過ぎる。

 

「じゃあ行こうか」


 軽い気持ちでポチが分厚いドアを開けた。

 

 そこには人が二人並んで歩けるほどの狭い幅で、長さも五メートルもない小さな廊下のような部屋があった。

 突き当たりと右側には更にドアがある。

 防音のための小部屋だろう。

 奥のドアの先が音楽室のようだ、誰かが練習をしている音が聞こえる。

 

 音楽室につながるドアを開けようと、呆けているポチの前でドアノブを手にかけたところで右にあったドアが開いた。

 立っていたのは、私よりも少し背の低い女の子だった。

 髪を後ろに縛り手にはクラリネットを持っている。

 

 とっさに私は足元を見る。

 上履きは赤のライン、つまり二年生だ。

 

「執行部の人?」

「はい、高橋先輩ですね」


 ポチの問いかけに、不安げな表情をしていた先輩はこくん、とうなずいた。

 

「では、さっそく例の件についてお聞きしたいのですが」


 無言で楽器を右の部屋にあったピアノの上に置く。

 どうやらこっちは練習室のようなものらしい。

 私たちもその部屋に入る。

 奥の左にもドアがある。

 そこからも音楽室に行くことができるのだろう。

 さきほどの狭い部屋が音楽室とこの練習室と繋がっていて、音楽室と練習室も繋がっている。

 ぐるりと回ることができるのだ。

 

「でも、何から話せばいいのか」

「まずは、日付と時刻から」


 慌てて手帳を開く。

 質問役がポチで筆記役が私という役割分担が瞬時にできてしまった。

 

「三月の、三週目の土曜日だったかな。時間は、六時くらいだったと思う」

「休みですね」


 手帳付属のカレンダーを見て、日付を書き込む。

 

「うん、でも、練習はしないとだし」

「では、ほかにもここには人がいたんですか?」

「ううん、練習自体は五時くらいに終わって、あとは自主練習になったんだけど、私、入ったのが冬前だったから遅れてて、うん、最後に施錠をしたのは私で、五時半には誰も居なかったと思う。絶対かって言われると、うん、どうだろう」

「それで?」

「もう六時だし、明日もどうせ練習だし、切り上げようと思って、楽器をここの練習室で片付けていたの。そうしたら、音楽室で、音がして、なんだろうと思って」


 彼女が窓の方へ歩き左手に見えるドアに手をかけた。

 かちりと高い音がして、ドアを開ける。

 あまりポチにばかり質問をさせていてもいけないと思い、私も何か聞くことにする。

 

「そのとき、このドアは開いていました?」

「ドア? うん、開いてはいなかったな。鍵はないんだけどね」

「じゃあ、ドアが閉まっていて、音が聞こえたんですね」

「え、あ、う、うん、そうだよ」


 私の問いかけに少し戸惑ったのか、先輩は首を傾げる。

 小さな違和感を持ちつつ、更に突っ込んだ質問をするべきか、一瞬悩んでいるうちに、ポチがひょうひょうとした雰囲気で質問を変えた。

 

「具体的にどんなものでしたか? 先輩なら楽器の音を聞き分けられると思うのですが」

「音、音、そうだね、楽器じゃなかった。いや、うん、でも、そう考えると、私の聞き間違いだったのかもしれない。音、というか、雑音というか」

「雑音、ですか」

「そう、雑音だった」


 音と雑音にどれだけの違いがあるのか、私にはわからない。

 音楽をやっている彼女にとっては違うものなのだろう。

 

「ああ、わかった。今思えば、何かの機械の音、オーディオのスイッチを入れた瞬間みたいな、波を打つような音だったんだ。うん、そうだ、私、誰かが音楽室のオーディオを切らずに帰ったんじゃないかな、って思ったんだ。うちの先生、そういうのに厳しいから」

「それで、ドアを開けた、と」


 念を押すようにポチが聞き、軽く同意をして、先輩が先へ進む。

 

「どうせ最後には確認しないといけないから」


 先輩、私、ポチの順でドアを抜けて音楽室に入る。

 今の時間は誰もいないようだった。

 

 ドアのすぐ右手、つまり正門の方の北側と、今の私たちからは正面にあたる西側に一面窓がある。

 正面には確かに先輩が言ったように、オーディオセットが置かれている。

 授業でも使うのだろう。

 左側には黒板、そしてその前にグランドピアノがあり、それに向かって机とイスが並べられている。

 

「それで、こっちに入ったら、音が消えていたんだよね」

「それは気のせいだった、ということですか?」

「うん、確認はできないけれど。そう言われればそうかもしれない」


 彼女が自信なげに答える。

 

「そうですか、それで、何を見たんですか?」

「あ、うん、電気が消えていて、もう六時過ぎだからそれなりに暗かったんだけど、正面のカーテンが開きっぱなしで、風が吹いていて、ああ、誰かが閉め忘れたんだな、と思ったんだ。そうしたら、白い影みたいなものが、ふわっと、動いた気がして」


 先輩が言葉とともに、カーテンの場所を指差し、すーっと、左へ動かしていく。

 

「それが、前室のドアに吸い込まれていったの」


 言いようのない気持ちがこみ上げてきて、背筋がざわざわとする。

 私たちが最初にいた狭い部屋は前室というものらしい。

 その白い影、幽霊は音楽室から出ていこうとしたのだ。

 

「それだけ、ですか?」


 ポチは先輩の話に動じるどころか、いつものような少し眠たい顔で聞く。

 

「いや、こう、僕はあまりそういった話は詳しくないのですが、首を絞められたとか、呪いの言葉を吐かれたとか、教室中の物が動きだしたとか、そういうのがないものかと」

「ううん、そういうのは」


 上級生にもかかわらず、ポチに対しても気弱そうに返す。

 

「そうですか。では、何だと思いました?」

「……なに、って?」

「いえ、第一印象でいいんです。幽霊だと思いましたか?」


 今までの話を聞いていなかったのか、とも思ってしまったけど、先輩ははっとした表情をしてポチの顔を見ていた。

 

「ああ、そっか。うん、幽霊だとは思わなかったかな。見間違いかもしれないし」

「それから、この話、誰かに言いましたか?」


 ポチが質問を重ねる。

 

「うん、クラスの友達何人か、そういう話が好きそうなのにしたけど、まさか執行部まで話が行くとは思わなかったよ」

「今した話と同じ話をしたのですか?」

「うん、そのつもりだったけど。誰かが尾ひれをつけちゃったのかな」


 その人たちの誰かが意見箱を使ったということだろうか。

 

「最後に一つだけ」


 ピンと、もっともらしく指を立て、ポチが私と、先輩の目を順番に見る。

 

「執行部の意見箱、ご存知ですか?」

「えーと、部活に行く途中に見たことあるよ。でも、あれって使っている人いるの?」

「そうですか、ありがとうございます」

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