第三週目「お兄ちゃんとラジオとへび花火」3
自分の部屋で大きく深呼吸。
家に帰って急いでシャワーを浴びて髪を乾かした。
夕方からシャワーか、と父が不思議そうな顔でこちらを見ていたが無視する。
数日間、十分に思案した服を着る。
胸元にリボンが三つ並んだピンクのワンピースに、フリルベロアの黒いカーディガン。
やり過ぎかと思わないでもないけど、そこはそこ、許容の範囲だと言い聞かせる。
下に降りて今度は変な顔をしていた父をまた見なかったことにする。
さっきメールがあった。
お兄ちゃんが来るまであと少しだ。
夕食を用意しようと思ったけれど、それは済ませてきたので大丈夫、と返信があった。
アピールポイントを一つ失ったみたいで小さく落胆する。
「お父さん、もうすぐ来るって」
「そうか」
父は無愛想に、居間のソファでくつろいでいる。
猫のコタローは、我関せずといった顔で玄関の猫用マットに彫像のように鎮座をしている。
折れた耳はいつも通り。
多少人見知りなところはあるけど慣れたお兄ちゃんなら逃げないはずだ。
「きた!」
チャイムの音と、私の声と、コタローの鳴き声が重なる。
居間を飛び出し玄関のドアを開ける。
「久しぶり。元気にしてた?」
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
この家に来るのは初めてのはずだけど、今までと同じ挨拶になってしまう。
目の前には数ヶ月ぶりに会ったお兄ちゃんがいた。
仕事でもないはずなのに、普段会社で見かけるのと同じくスーツを着て、ネクタイまでしっかりと締めている。
短くしたいのか伸ばしたいのかわからない髪に、黒縁メガネ、優しそうな瞳。
私の大切なお兄ちゃんだ。
右手には紙袋を持っている。
東京土産だろうか。
私も元々は東京出身なのだから東京土産といわれても困るけれど、それでも何もないよりは嬉しい。
「コタローも、久しぶり」
「え?」
お兄ちゃんに応じるようににゃあ、と言いかけたコタローがびくっと震え、驚いた顔でたたたっと奥の部屋へと逃げ出す。
お兄ちゃんの後ろには、もう一人いた。
居間のテーブルの前に四人が座っている。
震える手で用意した四人分のお茶は誰も手をつけない。
和やかなムード、というわけではない。
それでも険悪な、ということでもない。
静かな緊張が漂っていた。
私の周りには粘性の高い水の膜がまとわりついて、酸素が足りなくなっていた。
話の口火を切ったのは父だ。
「何年になる」
「もう十年を過ぎました」
「そうか、長かったな」
「ええ、とても長い十年でした」
十年、というのはお兄ちゃんの祖母が亡くなったことを指しているのだろう。
お兄ちゃんの唯一の親族であった祖母が亡くなってから、父は彼の後見人として種々の事務手続きを行ってきた。
「少し、肩の荷が下りたよ。雛さんには世話になったからな、これで借りは返せただろう」
雛さん、というのはお兄ちゃんの祖母のことだ。
私は会ったことがない。
彼女はそれなりに遺産を残したため金銭的な援助はなかったとしても、父は父なりに気苦労もあったのだろう。
私の向かいにはお兄ちゃん、横には父が、そして斜め向かいにはあろうことか私の知っている人物がいた。
むすっとして父が二人を見る。
「それで、どうするんだ?」
このシチュエーションで何が言われるのか、わからないほど私も馬鹿ではない。
馬鹿ではないが、馬鹿の振りをしていたい。
父を前にして、若干の仕事モードの口調で、お兄ちゃんが話し始める。
「単刀直入に言います。結婚するつもりです」
ああ、と息をのむ。
起こるはずがないと思っていた、起こるはずがないと願うことすら心の隅に追いやって無視をしていた、いつかきっと起こるだろう出来事だ。
「本当か?」
「はい」
父は二人を慎重に、確かめるように交互に見る。
「そうか、良かったな」
はっきりと返事をしたお兄ちゃんに、安堵した声を漏らす。
一方の彼女は、わずかに目視できるほどにうなずいただけだった。
どこか物悲しげな表情を崩さない彼女、北条先生は、今日学校に着てきた服のままで、お兄ちゃんの言葉を黙って聞いている。
「急に家に来るなんて言うから、そんなことだろうとは思っていた」
父はそれとなしに気がついていたみたいだ。
「今更説明する必要はないと思いますが、北条若菜です」
つまり、北条先生と父は顔見知り、だということだ。
「こっちは、というかこいつが決めたことにわざわざ反対するようなこともないが、いいのか? そっちは?」
話を向けられた北条先生は静かな声で話す。
「家とは縁を切っております」
「そうは言ってもな」
「反対するものはいないでしょう。私は北条家の厄介者ですから」
「まあ、そうだろうな、そうだろうと思うが、一応筋というのもあるしな、武人」
「それはもちろん、私の方で何とかしておきます」
三人だけで物事がどんどん進められていく。
今、のけものは私だけ。
「けじめはついたのか」
突然話を変えた父に、お兄ちゃんは強く答えた。
「それは、いいえ」
「時効、なくなったんだってな」
「知っています」
「十五年も前の話だ」
「たかだか十五年経ったからといって、それで納得できる人間がいるとは思えません。それは最初から時効の問題ではありません」
私の知らない話題だ。
声は堅い意志をうかがわせる。
表情は変わらず柔らかいけど、メガネの奥の目は寂しげに見えた。
「そうか、好きにしろ」
「はい、これまで通りです」
「もうお前だけの問題じゃないんだから、迷惑をかけないようにな」
「今までご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
お兄ちゃんが頭を下げる。
「式はどうするんだ」
「内々で済ませようと思います。会社と友人達を呼べばそれで済むかと。年内中に準備が整えば良いのですが」
ドアの隙間からコタローが居間をのぞいていた。
北条先生を観察しているのだ。
こいつは知らない顔だな、敵か味方か、油断してたまるものか、という態度である。
私もきっと同じような顔をしている。
「杏も黙っていないで何か言ったらどうだ」
父に促される。
「え、あ、おめでとう、お兄ちゃん」
頭に最初に浮かんだ、心にもない言葉を言う。
「ありがとう、杏」
「お兄ちゃん?」
低く、無色透明な声が聞こえる。
北条先生の声だ。
「ああ、若菜、昔からそう呼んでいるんだ。僕には家族は二人しかいないから、もちろんコタローも」
にゃー、と間延びした返事が部屋の隅からする。
自分が呼ばれたことは認識しているのだろう。
家族、ときっぱりと彼は言う。
わかってる。
わかってたんだ。
最初から、こんなの。
届かないって。
知ってたのに。
胸が痛くて。
ぐにゃりと。
「どうした杏?」
「私、ちょっとコンビニ行ってくる」
席を立つ。
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