木曜日「五分前は恋人だった僕ら」

 

 ベッドで眠るのは、私。

 両手を布団の上に投げ出して眠っていた。

 左腕には包帯が巻かれ、右腕には点滴の針が刺さっている。

 これは、一年前の私だ。

 もう、何もかも諦めてしまった私だ。

 

 三年前の私が座っていた丸イスに腰をかける。

 そして、私がそうしたように彼女の右手を握る。

 不規則だった鼓動が、二人、揃っていく。

 

 私が私の手を握るなんて変なシチュエーションだけど、それは夢なので仕方ない。

 

 それも、一年前の私なのだから。

 

 彼女は起きる気配はない。

 一生目を覚まさないのではないかと思うほどに、動かない。

 しかしそれが一生続かないということは知っている。

 今はまだ考えることを止めて眠っているだけだ。

 

 がちり、とドアを開けて、誰かが入ってくる。

 

 二人の男の人。

 片方は、私のお父さんで、今は難しそうな顔をしている。

 自分が作り上げた夢の中で苦労をかけてしまっていたことを実感するなんて、あの時の私に怒鳴ってやりたいくらいだ。

 もう一人はお父さんの後ろについて歩く、黒縁メガネの男の人。

 

「もう、決めたんですね」

「ああ、そうだ。杏にとっても、それが一番良いと思ってな。申し訳ないが、後のことはよろしく頼んだ、武人」


 これが、私のお兄ちゃんだ。

 

 世界で一番優しくて、本当のところは世界で一番よくわからない、私のお兄ちゃん。

 

 この後目が覚めて、世界中の不安を真っ直ぐに見てしまった私に、一度も不安を見せることがなかったのがお兄ちゃんだ。

 

「それはもちろん、可能な限り手は尽くしておきますが、残りの人間が何というか」

「何とも言いはしないさ。当面環境だけは残しておくつもりだ。引き時になったら誰かに任せるなり畳んでしまったっていい」


 彼は私が物心ついたときからたびたび東京に遊びに来ていた。

 そのときは彼の唯一の親族であった祖母が北海道に居たため地元の学校に通っていて、長期的な休みに会って会話をするくらいだった。

 お兄ちゃんが中学生の時に祖母が亡くなり東京の大学に進学してから、両親はすでに他界していて他に身寄りもいなかった彼を、彼の家の古い知り合いであったお父さんが身元を引き取ったのだ。

 正式なお兄ちゃんになったわけでもない。

 それ以前から私はお兄ちゃんと呼んでいたし、お兄ちゃんも、私を妹のように扱ってくれていたと思うから、実質何も変わりはしなかった。

 そう、何も変わりはしなかった。

 

「いいんですか? あの場所だって」

「大事なのは誰がいるか、だ。今さら気がついてもどうしようもないがな」

「そうですか」


 お父さんは事務所兼自宅の小さな事務所を経営していた。

 働いているのは十人くらいで、私も彼らのことは知っている。

 お兄ちゃんも大学を卒業すると同時に資格を取り、お父さんの事務所で働くようになった。

 

「それに、あそこは、今は私にも杏にも少し辛い」


 その事務所を引き上げることにして、残りの雑務をお兄ちゃんに任せようというのだ。

 

「ただ杏が中学を卒業するまではここにいるつもりだ。だからあと一年はある その間」

「何ですか?」

「杏が目を覚ましたら勉強を教えてやってくれ。ブランクを埋めるには、時間が足りないかもしれないが」

「わかりました。でも、それは、社長としての命令ですか?」

「もちろん、父親としてのお願いだ」


 静かに笑みを浮かべ、お兄ちゃんが眠っている私を見る。

 そのまま横へスライドして、座っている私と目が合った、ような気がした。

 今の私に向かって、「私は少し、厳しいですよ」と彼が言った。

 私は何か言い返さなくちゃと立ち上がろうとするけど、力が入らなかった。

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