火曜日「A sleeping spitz」5



「執行部に寄ってみようか?」


 誰もいない教室で、眺めていたケータイを閉じてポチが言う。

 

 時間は六時前になっていた。

 一時間は経っていたことになる。

 その間にしていたことといえばほとんど雑談に近いものだった。

 わざとさっきの話題を避けていたとも言える。

 図書館で過去の新聞を読むのは後日に持ち越しになった。

 図書館常連のポチが今日は閉館が四時半であることを知らせてくれたからだ。

 窓から見えるグラウンドではサッカー部が練習をしていた。

 グラウンドに備え付けのライトがこちらに向かっていて眩しい。

 窓際に座っていたポチが逆光で白く見えた。

 

「何かあるの?」

「もし開いていたら、聞けることもあるかと思って」

「いいけど、柏木さんに会いたいから、とかじゃないよね」

「確認したら、それで今日はおしまいにしよう」


 私の皮肉をあっさり無視し、ポチが立ち上がる。

 荷物もすっかりカバンに詰め込まれていた。

 

「じゃあ、行こうか」


 すでに急ぎ足で歩き始めてから私に声をかける。

 

「ちょっと待ってよ」


 私が立ち上がりカバンを引き上げたときには、ポチは既に教室のドアに手をかけたところだった。

 教室を出て、すぐ脇の階段を上っていくポチに追いつく。

 

「待ってって」

「あ、うん」


 気のない声で返事をして、急いでいたわりにゆっくりと一歩ずつ階段に足をかけていく。

 

「杏さん」

「ん?」

「ごめん」

「え、なんで? 追いついたからいいよ」


 正面を歩いていたポチの唐突な言葉に、私は足を止めてしまう。

 

「そっちじゃなくて」

「なら、なに? 言いたくないんでしょ?」

「うん。とにかく、ごめん。そう言いたかっただけ」

「はいはい、今度パフェでもおごってくれればいいよ」


 肩を落としているポチに正直戸惑いながら、冗談でも言う。

 

 誰にだって言いたくないことくらいある。

 そんなことわかっている。

 私にだってポチにも誰にも言いたくないことは山ほどある。

 だからって、お互い曝け出していくわけでもない。

 どうにかこうにか、そうやって周りと折り合いをつけるのが人間じゃないか。

 

「それくらいなら、いくらでも」


 四階に到着して二人の浅い会話が終わった。

 三年生の階だけど受験生でもある彼らは、部活動をしている生徒以外すでに帰宅しているのだろう、ひっそり静まりかえっていた。

 廊下の照明は一段階落とされていて廊下の隅がぽっかりと真っ黒い穴を開けていた。

 

 左に折れて執行部を目指す。

 右側の吹き抜けからは生暖かい風が吹いているように感じた。

 左側にある教室からは物音はしない。

 学校全体が眠りについている気もする。

 

「あれ? なんだ?」


 ポチが変な声を出した。

 

「ん?」


 ポチが止まる。

 振り返って、私を見た。

 

「いや、あれ……」


 ポチが、私の後ろを指差す。

 つられて、私はその方向、吹き抜けの下を覗き込む。

 

 そこに、人がいた。

 高さはちょうど二階分下、二階の手すりのところに。

 全身、白い服を着た、人影。

 制服ではない。

 フードを被っているのか、髪型もわからない。

 背格好から、何となく女の子だと思った。

 ゆっくりと、歩くようでもなく流れるように、吹き抜けに体を倒す。

 渡れるわけない。

 助走をつけたって、端から端からジャンプもできない距離だ。

 

「あ、あぶ」


 人影が、手すりを、越える。

 私が息を呑む。

 そのまま、ゆらゆらと揺れながら吹き抜けの何もない空間を歩いている。

 あれは、そう、まるで、幽霊のようだ。

 

「杏さん!」


 ポチの声よりも速く私は駆け出していた。

 四階から中央階段を一段飛ばしで駆け下りる。

 

 遅い。

 

 間に合え。

 

 追いつけ。

 

 二階に到着する。

 

 じん、と足から響いてきた。

 遅れてスカートがふわりと顔の前に広がったけれど、それも気にしない。

 

 視界が開ける。

 人影が渡ろうとした手すりまでたどり着く。

 

 どこだ。

 

 吹き抜け向こうの廊下。

 吹き抜けをぐるりと囲んだ廊下。

 

 いない。

 どこにも見えない。

 影は消えている。

 

 左側に行った?

 それなら、廊下を抜けて別な教室に入ってしまったらわからない。

 

 渡り切るまで見ているべきだった?

 いいや、そんなはずはない。

 

「ポチ!」

「奥の柱の陰になるところまでは見えた!」


 四階からの声で、右から吹き抜けを回りこむ。

 数歩で左へ曲がりポチから死角になっている柱を見る。

 何もない。

 そこからまた十メートルほど走ってその柱まで辿り着く。

 美術室の前で、呆然と立ち尽くす。

 そこには、全く、何もなかった。

 人影はどこにもなかった。

 

 本当に、幽霊のように姿を消していた。

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