藤元杏はご機嫌ななめ2 ―冷たい花火と優しい暗号―
プロローグ「帰り道と線香花火」
プロローグ「帰り道と線香花火」
とぼとぼと僕と彼女は歩いている。
「連絡、ついた?」
「いや」
彼女の問いかけに僕は自分のケータイを見て返す。
「そう」
彼女が上の空で応える。
夏の夜の気候のせいなのか、普段の乾いた声とは違う、湿り気の混じった声のような気がした。
彼女の姿は見えない。
一本道とはいえまだ地理を把握していないだろう彼女のために、僕がほんの少し先行して歩いている。
歩きながら着替えていないとすれば、彼女は白地に赤の模様が入った浴衣を着ていて、普段降ろされている髪は後ろでまとめられているはずだ。
だらだらと人の波が作られ一方向に流れているので、迷うということもないだろう。
羊の群れみたいだ。
八月一日、夏期講習が一段落し気分的にも夏休みにようやく突入したところだ。
僕と彼女は所属する生徒会執行部の数名と毎年恒例の港祭りを見るため、街の盲腸のような突端である大橋のたもとに来ていた。
ぐにゃりと曲がった半島のようなこの街は、島の頂点から大きな橋が延びていて、車で街を一周できるようになっている。
「今日は晴れていて良かった」
一瞬だけ、僕は空を見上げる。
澄んだ夜空には星が煌々と輝いている。
ここしばらくはどんよりとした天気が続いただけに空気も彼女とは反対に乾いているように感じた。
「去年はすごかったんだよ。雨は降らないからって中止にならなかったけど、霧が酷くて靄みたいな綿飴みたいな形の光が広がるだけでさ」
僕がなるべく明るく話しかけてみるも、やはり彼女は無言。
本当に存在しているのかも怪しい気がしてきた。
今日は開催三日間のうちメインイベントである花火大会が行われる日とあって会場は混雑していた。
そして花火が打ちあがる直前までは全員揃っていたはずなのに、終わってみれば周りに彼らの姿はなかった。
それが何を意味しているのか知りようもないけれど、明りもなかったし、人ごみではぐれてしまったのだろうと思うことにした。
プログラム通りに花火が終わったところで彼らがいないことに気付いた。
すぐに連絡を取ろうとしたが、会場でケータイを使う人が多かったのか一時的に不通になってしまっていた。
仕方なく一緒に来ていた同じ執行部で同学年の柏木さんにメールを送っておいたものの返事はまだない。
途方に暮れる間もなく、早々と屋台がぽつぽつと閉まりはじめ、お祭りの終わりを知らせるアナウンスが安いスピーカーからこだましていた。
近くには鉄道の駅はない。
帰りの無料臨時送迎バスに乗ろうとしたところで、あまりの混み具合に一時間待ちになるかもしれない、と聞かされてしまった。
「みんな、ちゃんと帰ったのかな。柏木さんはお父さんが迎えに来るって言っていたような気がするけど」
道路も花火大会の影響を受けて渋滞しているようだった。
「さあ」
生返事を繰り返しながら、下を向いている。
バスを待って一時間立ち往生するかどうか悩んでいると、彼女が『歩いてどのくらい?』と聞いてきた。
僕らが住んでいる地区までは、歩いても一時間かからないくらいだった。
そう告げると、『じゃあ、歩いて帰ろうか』と彼女が何かを決心したかのように提案してきた。
僕は何度か歩いて移動したことがあるので大丈夫だとはわかっていたし、どうやらそういう判断をした人が結構な数いることも人の流れから読み取ってはいた。
ただ彼女がそう提案するとは全く思っていなかったため、虚を衝かれ立ち尽くしていると、『だめなの?』と畳みかけてきた。
思いつめたといってもいい様子の彼女に返す言葉もなく、僕はただうなずくことしかできなかった。
そして僕らは十分ほど歩き続けている。
左手には造船所があり、その向こう側では海が広がっていて、さらに向こうではまた街のわずかな明りが見えた。
街の光と月に照らされて、暗い海がちらちらと白く反射をしていた。
「終わっちゃった」
彼女がぽつりと呟く。
それが花火のことなのか、夏祭りのことなのか、夏休み前の授業のことなのか、それともこの一ヶ月間のことなのか、僕には判別できないし、判別したいとも思わない。
それは僕の役割ではない気がしたし、それこそ僕の役割はもう終わっているとも思っていた。
だから、僕はしばらく何も言わなかった。
一歩後ろにいる彼女の表情は読み取れない。
オルフェウスの気分。
振り返れば、彼女は消えてしまいそうだった。
「いつか、こんなときが来るってわかっていたのに」
エウリュディケーである彼女のそれは独り言だ。
「でも、本当は逃げたかった」
どこまでも独り言だった。
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