ちっぽけなこと 2/5
「あり姐『rude mood』だ! 『rude mood』教えてくれ!」
バックさんは興奮気味。趣味が変わった直後はいつもこうなる。
「『rude mood』なんて私も弾けませんし、ましてやバックさんみたいにコードカッティングもロクにできない人が弾けるわけないです」
「何かないか?! 俺に弾ける曲。レイ・ヴォーンが弾きたいんだよ」
今日も練習は公民館の一室。全員自分のミニアンプとギターを持ってきている。詩織はギターのチューニングを終えると、二人に話しかけた。
「ルードムード? レイ・ヴォーンって、ミュージシャンの名前ですか?」
「そうだしー坊! 見てみろ、神だぞこれは!」
バックさんはすぐさまリュックから一枚のDVDを取り出した。
「スティーヴィー・レイ・ヴォーン! これは一つの究極だ! そうだろあり姐!」
「……まあ、否定はしないです」
「そうなの? 究極って、なんの究極?」
「よし、俺のノートパソコンで『rude mood』見るぞ!」
練習時間を削ってDVD鑑賞とは。あり姐が難色を示す……と詩織は思ったのだが、あり姐はギターを椅子に立てかけると、バックさんのノートパソコンのセッティングを手伝い始めた。
「垣沼さん、レイ・ヴォーンのギタープレイ、初めて見るでしょ?」
「え、うん」
「ほんっとすごいから」
バックさんのノートパソコンの前に三人集まって顔を寄せ合った。詩織の隣に膝をついたあり姐の顔はなんだか嬉しそうだ。
出てきた映像は、まるで古いビデオテープの映像をそのままDVDに録画しただけのような、粗いものだった。だが、カウボーイハットをかぶったそのギタリストのプレイに詩織も圧倒された。
ブルース、ブギー、ロック、どの言葉がどれくらい的確なのかは分からないが、誰がどう見ても、聴いても、「アメリカン」なギタリスト。パワー、スピード感、骨太なサウンド。
「かっこいい……」
惚れ惚れとそう言ったのはあり姐だ。詩織が見た事がないキラキラした笑顔を浮かべている。あり姐の向こうから必要以上に大きな声が飛んできた。
「これ、弾けるようになりたいだろ! そうだろしー坊!」
「え……」
詩織はバックさんに苦笑いしか返せなかった。この曲の難しさ具合はハッキリとは分からないが、自分たちとレベルが違うことはハッキリ分かる。詩織が何も言えずにいると、あり姐が口を開いた。
「今やってる曲が出来るようになったら、考えてもいいです」
「マジか!」
「『考えてもいい』ですから。やるとしても私が教えるっていうか、『みんなで挑戦』って感じで。私もこの曲は弾けないんで。ただ、その代わり……」
膝立ちしていたあり姐が立ち上がって、椅子に座り、バックさんに向き直った。
「ほんっとにやりたいなら。バックさんがほんっとにやりたいなら、考えます。途中でやっぱりアレ、コレとかはナシにしてください」
「おお! 当然だろ。俺は有言実行型だぞ!」
どの口が言ってるんですか、と言っても、この口だよ! と返ってくるのだけなのが目に見えている。あり姐も詩織も、そこには突っ込まなかった。ただ、あり姐は、納得はしていないようで
「冗談とかじゃないですから。マジで。ほんっとにやりたいんですよね?」
「当然だろ! 俺は有言実行型な上に、一途な思いを抱き続ける純朴な青年だぞ!」
あり姐は自身の本気度が伝わらないことにイラッと来たらしく、「フーッ」と鼻で勢いよく息を吐いた。
詩織はほんの少しドキドキしていた。これであり姐とバックさんの仲が険悪になる、なんてことはないだろうが、ギター教室であり姐がここまで本気な雰囲気になったのは初めてだ。
「まあね、どちらにしろ、まずは今やってる『神田川』に集中してください」
この前まで、バックさんは七十年代フォークにはまっていたのだ。
「垣沼さん、セーハは親指と人差し指でネックを挟むんじゃなくて、親指で人差し指にネックを『押し付ける』の」
詩織は親指の位置を調整して、『押し付ける』感じにした。バックさんの方はあり姐にもらったメモを見ながら一人で練習している。
「こう?」
「そうだけど、もっと肩の力ぬいて」
詩織は肩から力を抜いた。
「そんなに肘を体に押し付けない」
詩織は肘を体から離した。
「前腕に力入ってる!」
詩織は前腕の力を
「顔をそんなにネックに近づけない!」
詩織は顔
「また肩に力入ってる!」
詩織は
「肘!」
し
「前腕!」
いつもこんな感じだ。詩織が悪戦苦闘しているうちに、あり姐のスマホが鳴った。
「もしもし。……」
誰と話しているんだろう。詩織は取りあえず電話が終わるまで待った。
「うん……いやダメ。下手だから。え? …………本人たちに確認する」
これはもしや…と詩織が心配するなか、あり姐は電話を切ってこう言った。
「バックさん、垣沼さん、今美紀から電話きて。二人の発表会やったらって…」
詩織は脊髄反射のように顔を横に振った。
*
「おい阿部!」
ガシャン! という衝撃音の直後、黛君がそう怒鳴った。
「何やってんだよ! それ宴会用のヤツだろ!」
阿部君が手を滑らせて落としたのは、宴会用の大皿。この店には三枚しかなく、貸し切りの宴会の場合、必ず三枚すべて使う。つまり、阿部君は替えが効かないお皿を割ってしまったのだ。
衝撃音を聞いて、悠もすっ飛んできた。
「ありゃりゃ! ケガは?」
「す……」
これは「すいません」だ。
「ケガはしてないよね?」
悠がもう一度確認すると阿部君は「は…」と首を縦に振った。
「悠さん、ケガだけでいいんですか? これ、三枚しかないやつですよね?!」
「割っちゃった物はもうどうしようもないよ。今のとこ宴会の予約は入ってないし、ギャンギャン言ってもしょうがないでしょ」
「そうじゃなくて! 三枚しかない皿だから大事に扱わなきゃいけないじゃないですか! それを不注意で割ったんですから、仕事に対する姿勢とかを問い直さなくていいんですかって、そういう話をしてるんですよ!」
『あなたは分かってない』みたいな雰囲気で責められ、悠は何となくムッとした。
「手をケガして血が出てたら仕事できないかもしれないでしょ。まずその確認するのは当然だよ。それに私には、阿部君がいい加減な姿勢で仕事してるようには見えないけど」
「じゃあこのお皿どうするんですか!」
「そうだな……大将が前に割った時は……」
そう。実は大将は以前、宴会用の大皿を三枚まとめて割ったことがある。片手で脇腹を掻いて、あくびをしながらテーブルに乗せたら、きちんと乗っておらず……要するに不注意で割ったのだ。
その時は悠が新しいお皿の調達を頼まれ、安売りされていたこの大皿を見つけた。三枚セットで千四百円。それでいて見た目は渋くて安っぽくなく、大将もわりとお気に入りだった。
「私が買いに行ったな…」
黛君は「チッ」と舌打ちすると
「おい阿部! お前責任とって買いに行けよ!」
阿部君をそう再び怒鳴りつけた。
「は…」
黛君の怒鳴り声にイラッとした悠はキッパリこう言った。
「誰が買いに行くとか、どう責任とるかとかは、君が決める事じゃないから」
阿部君が表に出さない感情を神様が大切にしてくれたんだろうか。しばらくすると雨が降り出し、その日は夜通し雨だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます