言えないことは… 10/12 ~間一髪~
詩織はベッドの脇で目を覚ました。ベッドから落ちたのか、初めからここで寝ていたのか分からない。時計を見るともう昼前だ。そう言えば、いつ帰ってきたんだろう? 帰宅した時の記憶がない。
インターホンが鳴った。いや、さっきから鳴っている。それで目が覚めたらしい。自分の恰好を確認すると、寝癖以外一切合切昨日のままだ。詩織はそのまま玄関へ向かった。
「おはよ。今まで寝てた?」
悠だ。
「うん。ごめん、気付くの遅かった? 昨日遅くまで飲んでてさ…」
「知ってるよ。え、ひょっとして帰ってきた時の記憶ないの?」
詩織は固まった。
―― 何かやっちゃったのかな私…。
話は昨晩遅くにさかのぼる。
*
悠は古いスウェットの上に古いパーカーを重ね着して、布団に潜り込んだ。しばらく我慢してこうして潜っていれば、布団は暖かくなる。
「寒いよね寒いよね」
家の外から声が聞こえてくる。一体誰だ?
「寒いよ寒いよ寒いよぉっ。でもそれが人生! ワンツーパぁーンチ!」
詩織に決まっている。例によって酔っぱらっているらしいが、美紀か誰かが送ってきているのだろうか? まさか一人?
悠は心配になって、布団を出て玄関を開けた。
「ねえ詩織?」
悠の目に飛び込んできたのは酔っぱらった詩織。そして、悠の知らない男の子だった。詩織は悠に気付くと手をブンブン振り回した。
「おう悠、おいっす。おいっすおいーっす! ちょーすけだよ。ぐふぁっふあ!! カトちゃんぺえ」
「しー坊さん、もう遅いんで静かに…」
「黙れこの松ぼっくり! ちんちろりんのぼっくり池谷が!」
悠は聞き逃さなかった。
―― 池谷? こいつが?
「あんたたち! うるさいよ!」
七号室から山崎さんが出てきた。当然だ。
「すいません!」
謝ったのは、これも当然、詩織ではなく悠。
「またそんなに酔っぱらって! もうお酒飲むのやめさせなさい!」
山崎さんはそう言って扉を閉めた。
「しー坊さん、怒られちゃいましたから、もう中に入りましょう」
池谷君に肩を叩かれた詩織は「んふふん」と鼻で笑うと鍵を取り出した。だが、上手く鍵穴に差し込めないでいる。
池谷君の手が鍵へと伸びた。悠がとっさに二人の間に割り込む。
「私がやるから大丈夫」
悠は詩織から鍵を取り上げると扉を開け、鍵を返してすぐに家の中に詩織を無理やりグイッと押し込んだ。
詩織がご機嫌な笑顔のまま「うおおっ!」と家の中へ飛び込むと、悠はすぐに扉を閉めた。
「君が池谷君? ありがとね。送ってくれて」
早口でそう言って、池谷君の反応を見る。
「いえ。あ、ひょっとして『ゆうさん』ですか?」
―― こいつ、何も気にしてない風だけど、私の敵意に気付いてる。
「うん。次から詩織には、私か美紀ちゃん、それか黒川君に連絡させて」
「あ、はい。分かりました」
―― 素直。でも多分私の言う事聞く気ないな。
「もう遅いから、君も帰りな」
悠は池谷君が帰るのをアパートの二階から見届けた後、ドアノブをそっと回して詩織が中から鍵をかけた事を確認し、家に戻った。
*
そんな出来事があっての今朝(もう昼)だ。
「スープの材料持って来たから。ご飯作ってあげる。入っていい?」
「あ、うん」
詩織が顔を洗ったり歯を磨いているうちに、家はキャベツのコンソメスープのいい匂いでいっぱいになった。
洗面所からダイニングに戻ってくると、悠は冷蔵庫をあさっている。
「肉ばっかりじゃん。それに卵。野菜ないの?」
「右奥にがんもどき入ってない?」
「野菜じゃないから」
「ひじきとか人参とか入ってるじゃん。それにさ、大豆で出来てるよ」
「がんもどきは野菜じゃ、な、い、の!」
「…大丈夫だよ。野菜ジュース毎日飲んでるから」
ウインナーに目玉焼き、悠が持ってきたカットレタス、それにキャベツスープ。朝ごはんがそろった。もう十二時だが。
「いただきまーす」
そう言うと詩織はまずスープに息を吹きかけ、一口すすった。
「あー、おいしい」
しみる。思ったより体が冷えていたらしい。今やっと目が覚めた感じがする。
「ねえ詩織、昨日どこで誰と飲んでたの?」
「美紀と池谷君と私の三人で、駅から登り方面に少し行った所の居酒屋で飲んでた。…ねえ、ひょっとしてさ、私何かやっちゃった?」
悠は少し間を置き、首を縦に振った。
「何やったの? 私」
「池谷君と二人だけで帰ってきたよ」
「ん? 美紀がいなかったって事? 確かに一緒に飲んでたけどさ、美紀は一人だけ方向違うから…」
「そういう問題じゃないでしょ」
悠が詩織の言葉を押し返した。
「あんなベロベロに…記憶なくなるほど酔っぱらって、男と二人だけで家まで帰ってきて。もしそいつに家に入られて襲われたらどうするの?! 人生変わっちゃうよ!!」
大きめの声で言われて詩織は視線を落とした。
「池谷! あいつは本当に気をつけた方がいい。かなりタチ悪いタイプ。昨日はたまたま私が気付いて止められたけど、もし私が仕事中でいなかったら、多分やられてたよ! 本っ当に気をつけな」
詩織は何も言えずに、こくりとうなずいた。
「よし。一度怖い思いすればもう大丈夫。結果的にはよかったよ何事もなくて。ほら食べな」
*
「ねえしー坊、見に行けたの?」
夜になって詩織に電話してきたいそべえは、また第一声から絵の話だった。
「いよかんが付けたタイトル見た?」
「……ごめん、私ちょっと……具合悪いから、切るね」
「え? じゃあ…明日大学で会える?」
―― 具合悪いって聞いて、最初に言う事それ?
「分かんない」
「俺と同じ空きコマ(授業を取っていない時間)あったよね」
「あるけど分かんない」
「え、どういう事? ……取りあえず明日また連絡するね」
いそべえはそう言って電話を切ってしまった。
―― 私が具合悪い事はどうでもいいってか! それとも『嘘だって気付いてるからね』みたいな? 最悪。
*
次の日の空きコマ、詩織はコソコソとキャンパス内を歩いていた。朝、いそべえから電話がかかってきたが、無視してやった。それきりスマホは見ていない。
詩織がこの時間授業がない事は知っているはずだから、どこか見つからない所に隠れなくては。
―― Rのケヤキ…ダメダメ。あいつ、私があそこ好きだって知ってるもん。だから国語棟の…いや、そんなとこにいたら一瞬で見つかっちゃうなきっと。
詩織は結局、南講義棟の最上階の空き教室に潜り込んだ。普段はこんな所に来ない。ここならまず見つからないだろう。
スマホは見たくない。詩織は授業のプリントをしまっている大きなファイルをリュックから引っ張り出し、適当に読みだした。だが全然頭に入ってこない。目では図や表、文章を追っているが、本当にただ追っているだけ。これ、どの授業のプリントだっけ?
「ガチャン」と扉が開く音が響いた。
「やっぱりこんなとこにいた」
―― !
いそべえだ。
「しー坊…」
いそべえは詩織の向かいに腰かけた。どうしてここが、こんなにも早くバレてしまったのだろう。詩織はショックで言葉が何も浮かばなかった。
「ねえ、どういう事なの?」
いそべえの最初の質問はこれだった。
―― 『どういう事』ってどういう事? 何をどう答えたらいいわけ?
詩織は自分の呼吸を感じながら、喉に力を込めて声を出した。
「行った」
「え?」
「行った行った。行ったよ展覧会。見た。よかった」
「ああ…その話は後でいい」
詩織の心臓の鼓動はさらに速くなった。何の話をするつもりなんだ?
「おととい、池谷に家まで送ってもらったって本当? 今朝本人から聞いたけど」
―― !!
鼓動はどんどん加速していく。
「それが?」
「それがじゃないでしょ。鍵開けられないくらい酔ってたんだよね? そんな状態で男に玄関まで送らせるなんて、軽率じゃない?」
―― 分かってるよ。
「なんで? だってさ、いそべえに送ってもらう事だってあるじゃん。男じゃん」
「いや、信頼関係が出来てればいいけど、そうじゃない相手に簡単に……しかも、池谷だよ? あいつはそういうとこ、本当に危ないから」
―― もう分かってる!
「平気だよそんなの。悠がいたんだもん」
「それも聞いたよ。たまたま、運良くだよね? もし悠さんがいなかったらどうなってたか分からないよ」
―― 分かってる分かってる分かってる!
「いいじゃん別に。一度くらい。細かい事にうるさすぎ」
思わず「きもい」と言いそうになり、すんでのところで詩織はこらえた。
―― 危なかった……。私、最低。マジで最低! 大っ嫌い!!
「…まあ、無事だったからよかったけどね。でも」
「え何? まだ何かあるの?」
―― もうやめて分かったから…。
「しー坊、展覧会見に行ってないでしょ」
「え?」
「他にどんな絵あった? いよかんの絵のタイトル言ってみてよ」
―― 何それ?!
「何それ?! 勝手に嘘って決めつけて、尋問?」
「だって…」
「『俺はお見通しだからね』みたいなさ。あのさ、そういうのすごく感じ悪いよ。嫌われるよ」
「…ねえ」
「『ねえ』って何? 意味不明なんだけど。嫌われるよって教えてあげてんじゃん。っていうかさ、もう嫌われてるよきっと」
「…」
―― どうしようどうしよう…!
「っていうかさあ、展覧会の事にしても、池谷君に送ってもらった事にしてもさ、何でそんな事いそべえにさ、あーだこーだ言われなきゃいけないの?」
「え…」
「おまけにさ、池谷君の悪口まで言ってさ、そういうのよくないと思うよ。きもい」
考える前に口に出た。「きもい」自分の事を心配してくれる相手にだ。自分で放った言葉が、詩織の胸に突き刺さった。強烈な自己嫌悪で呼吸が止まった瞬間
バァン!
机を叩く音が爆発した。
「きもいってどういう事だよ!!」
息が出来ない。
「俺は君の事心配して言ってるのに!」
―― 分かってる。
詩織は息をゆっくり吸い込んで、吐いた。でも、それがやっとだ。
「その相手に『きもい』なんて、ちょっとひどすぎるんじゃない!」
―― 分かってる分かってる分かってる! もう分かったから!!
「そんな事言うなら、もう俺はしー坊の事なんか知らないからね」
―― 分かってるよ…。
もう一度「バァン!」と大きな音が鳴った。いそべえが出て行って扉を乱暴に閉めたからだ。もう教室には、世界で一番嫌いな最低最悪の人間がポツリと一人だけ。
だが、少しすると扉が開いた。
「どうかしました? 大丈夫ですか?」
隣の教室で授業をしている先生だ。そりゃあ、あれだけ大きい音を聴いたら、誰でも様子を気にするだろう。
―― 大丈夫です。
口は動いたが、声は出なかった。
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