言えないことは… 11/12 ~どっちかだけ謝る?~

 悠は古いスウェットの上に古いパーカーを重ね着して、布団に潜り込んだ。しばらく我慢してこうして潜っていれば、布団は暖かくなる。

 ところが、布団に潜って三分もしないうちにインターホンが鳴った。もう夜十一時。こんな時間に遠慮なく来るのは詩織に決まっている。狸寝入りしてしまおうか。そう思ったところで二回目のインターホン。眠いし寒いし、また明日にして。とテレパシーを放ったところで三回目、四回目、五回目。さらに六回目、七回目、八回目。いったい何事だ?!

 悠が扉を開けると、詩織が何も言わずに立っていた。唇を中に折り込んで、目を少し大きく開いてぱちくりさせている。


―― あ、泣きそうになってる。


 何も言わない詩織を、悠は何も言わずに家に引っ張り込んだ。

「座りな。どうしたの?」

 詩織は口を開きかけた状態で、微かに何度か動かした。

「ゆっくりでいい。大丈夫だよ」

 詩織はうなずき、深く息を吸って、口を一旦閉じてからこぼれるように言った。

「もう知らないって言われた」

 誰からかは聞かなくても分かる。

「黒川君に?」

「何度電話してもさあ…出てくれないんだよ」

 消えてしまいそうな声だ。

「そんな状態いつまでも続かないって。ちょっと待ってな」

 カップスープを一杯だけ作って詩織の前に置いた。コーンクリームだ。詩織は飲む前に何度も何度も、香高い湯気を深く吸っている。

「怒られたんでしょ? 怖かったんだよね。黒川君、普段は穏やかだもんね」

 詩織は答えずにスープをすすった。

「素直に謝れないし、悪いのはこっち。でもあんな言い方しなくても。だけど私にはそんな事言う資格ない。…みたいな?」

 何度もうなずく詩織を見て、悠は声を出さずに笑って見せた。

「そういうもんだよね。私も経験あるよ」

 そこまで言って悠は頬杖をついて黙った。詩織が話しはじめるのを待つ。

「私さあ、ひどい事言っちゃった。心配してくれてたのに」

「…」

「すっごくさ、ひどい事言っちゃったんだよ…。心配してくれてたのにさあ」

 詩織はだんだん泣き出した。

「心配してくれてたのにさあ……。私さあ…」

 悠はゆっくり口を開いて静かに、優しく聞いた。

「…なんて言ったの?」

「……」

「言えない?」

 詩織は鼻をすすってうなずいた。

「それはつらかったね。言えないって事は一番つらいって事だもんね」

 少しずつ落ち着いてきた詩織を見て、悠もしゃべりはじめた。

「こっちが悪いって分かってるのに、きつく怒られるのってつらいよね。謝りたいのに謝れないのも。今日は大変だったね」

 詩織はまたスープを飲み始めた。

「謝らなくていいんじゃない?」

 涙を浮かべながら不思議そうな顔をした詩織に、悠はもう一度無言で笑いかけた。

「だってそもそも、詩織より黒川君の方が強いもん。何にしたってね。ここで詩織が謝ったら、二人の関係はずっと不平等な物になっちゃうと思うよ。黒川君が一方的に強い立場に。向こうがそう思ってなくても、詩織の方の意識がね。逆らえなくなっちゃう」

「でもさ…電話してもさ…出てくれないんだよ…」

「大丈夫。いつまでも続かないよ。黒川君が落ち着くのを待ってればいいの。黒川君の気持ちとか、考えてる事は、美紀ちゃんにお願いして聞いてもらおう。私から話しておくから」



                  *



「いそべえさん、何かあったんですか?」

 製環研究室に来ている池谷君の前で、いそべえはパソコンのキーボードやマウスに向かって気を吐いている。

「ないよ何も。ダイコクー!」

 呼びかけに応じて、研究室の奥から後輩の女の子、ダイコクが出てきた。

「これでいい? イメージに合ってる?」

 ダイコクはパソコンの画面をのぞき込み、無言でうなずいた。

「プレゼン明日の何時だっけ? もし午後なら、午前中もうちょっと作業できるけど、その方がいい?」

 パソコンを見たまま、またダイコクは無言でうんうんとうなずいて見せた。

「何のうなずきなんだよ」

 そう言いながら池谷君がダイコクの肩を後ろからクリアファイルではたいた。

「え、あ、あの、すいません。えっと、いいですそれで」

「それって何だよ」

 池谷君は今度は頭をはたいた。

「あ、あの、それ…えっと…だ、だから、午前中は私ずっと、じ、授業なんで」

「だからどうって?」

 いそべえではなく池谷君とのやり取りになっている。

「えっ、ああ、だ、だから、こ、ここにいないんで」

「だから?」

「ええっ、あの、プッ、プレゼン前に…えっとその、か、確認できないから…」

「だから?」

「ええ? えっと、だ、だから、もうこれで、い、いいです。あの、ありがとうございました」

「お前、それだけ言うのにどんだけ時間かけてんだよ」

 また池谷君がダイコクの頭をはたいた。

「オッケー。じゃあこれで完成。もし追加したいものとかあったら、夜九時までに言ってくれれば、今日のうちに何とかしてメールで送るから」

 いそべえはイスから立ち上がってアクリル板を手に取った。

「宮ちゃーん! レーザーカッター終わったー?」

「終わったよー。使っていいよー」

 池谷君とダイコクに見送られながら、いそべえは研究室の奥へ入っていった。

「いそべえさん、ゼッテー何かあったよな」

「え? え、そうかな…」

「絶対だろ! しかも百パー、嫌な事だろ」

「えっ、そうなの?」

「お前のプレゼンの準備手伝わされたからじゃね?」

「え、ええっ?! あ、ど、どうしよう、怒ってるのかなあ…」

 池谷君は笑いながら、またダイコクの頭をはたいた。



 沸騰する頭を必死に冷ましながら、いそべえは階段を下りた。自転車をどこに止めたか思い出そうとするが、出てこない。どこでもいい。

 いそべえがとにかく外に出ようとすると、自動ドアが開いて人が入ってきた。

「あっ! いそべえお前!」

 美紀だ。いそべえを見ると顔をしかめて、左肩を突き飛ばした。いそべえはびっくりして持っていた自転車の鍵を落としそうになった。本気で怒っているらしい。

「え、何?」

「何じゃねーよ! お前いよかんと詩織会わしたろ!」

 いそべえには怒っている理由がさっぱり分からない。

「それが何かまずかった?」

「で、いよかんばっかチヤホヤしたろ!」

「え、そんな事ないよ」

「んで詩織にブチギレたろ!」

「ああ、うん。なんで知ってるの?」

「悠さんに聞いたんだよ!」

 いそべえの口からは自然とため息が出てきた。

「いいよね、しー坊は。そうやって味方してくれる人に泣きつけばいいんだからね」

「はぁあ?!」

 でかい声が美術棟一階に響いた。

「こっちんセリフなんだよこんタコ!」

 美紀はもう一度いそべえの肩を押した。

「お前はいいよな! そうやって研究室ん事とかガンガンやって気持ちごまかして、自分が落ち着くん待ってりゃいんだからよ」

「え、そんなの別に…」

「もう知らねえとか言ったろ」

 激しく追及され、いそべえの頭はだんだん冷えてきた。

「うん」

「お前ん方が色々『出来る人間』だろ?! 強いだろ詩織より!」

「…そうなのかな…」

 美紀は黙っていそべえを見ている。

「え、どうすればいい?」

「強いお前の方が謝れ」

「俺だけ?」

「そうだよ!」

 そんなの不公平だ。いそうべえが不満そうな顔をすると、美紀は舌打ちを投げつけた。

「じゃも電話で悠さんにでも聞け!」

 悠は詩織の味方のはずだ。それに正直、美紀ならまだしも悠から説教を喰らったら結構こたえる。話を聞くのは怖い。だが、詩織とこのままでいいのか。いそべえはその二つを天秤にかける事になった。



                  *



 次の日の夜、詩織はまた悠の家に来ていた。悠が作ってくれたオムライスを二人で食べる。

「あのさ、やっぱりさ……謝りたい」

 食べながらそう切り出した。自分に悪い所があったのは確かだし、今、怖くていそべえに会えない。「時間が経てば何とかなる」という悠の理屈は、間違っていないのかもしれないが、詩織には大人過ぎてついていけなかった。

「でもさ、やっぱり言えない。どうしたらいい?」

 悠は軽く笑った後、水を飲んで咳払いした。

「偉いね。『謝りたい』なんて。じゃあ、口で言う以外の方法考えたら?」

「どうしたらいい?」

「うーん……手紙書くとか? 私もよく分かんない」

 詩織は返事を保留した。手紙を書くためにはやっぱり言葉にしなければならない。でも他の方法も自分では思いつかない。悠に分からなければ、もうお手上げ。そんな自分がまた情けない。

「ねえ、明日誕生日でしょ?」

 不意に聞かれた。そういえばもう明日だ。追い詰められてすっかり忘れていた。

「やっぱり、予定何もない?」

 シンプルにうなずく。

「じゃあ映画行こう。私ちょうど…」

 悠のスマホが鳴った。「ちょっとごめん」と言って悠が家の外へ出ていく。詩織に聞かれたくないらしい。ひょっとして、いそべえだろうか。



「黒川です。遅くにすみません」

 悠は家から出ると、通路を抜けて階段を降り、アパートの庭へやってきた。

「はーい。どうしたの?」

「僕、美紀から叱られちゃったんですよね。しー坊に謝れって言われました」

「えっ、叱られたの? 私、黒川君の気持ちを聞いてみてってお願いしたんだけどな…」

 黒川君は「ああ…」とはっきりしない相づちを打った後、要件を話しだした。

「あの、僕がしー坊に謝らなきゃダメなんだろうなって思ってるんですよね。でも、やっぱり割り切れないって言うか…。はっきり言って、なんか不公平に感じちゃうんですよね。だって……あの、悠さんがどこまで知ってるか知らないですけど、僕あの時、しー坊に」

「あ、ちょっと待って」

 悠は慌てて会話にストップをかけた。

「詩織に何て言われたかは教えなくていい。あの子、私に知られたくないみたいだったから」

「え、そうなんですか?」

「うん。人に言えないくらいひどい事言ったって思ってるんだよ」

 電話の向こうから「ボボボ」と、マイクに空気が当たる音が聞こえた。いそべえが笑ったらしい。

「そう思ってるのに、何で謝れないんですかね…」

「さあね」

 本当は悠には分かっている。でもいそべえには教えない。ここで悠が教えてしまったら、二人はこれから先もずっと悠がいないと仲直りできなくなってしまうかもしれない。

「黒川君も、詩織に謝らなきゃいけない事あるんじゃない?」

「…はい。あります。でも…」

「じゃあ、それを口実にしなよ」

「口実?」

「割り切れない自分への口実っていうか。『だから謝らなきゃいけない』って自分に言い聞かせるの。そうやって頑張って黒川君が先に謝ったら、詩織も謝るかもよ?」

「そうですかね…」

「いや、分かんないけど」

 また「ボボボ」と音がした。

「でも、詩織には謝りたいって気持ちはあるみたい。それは本人から聞いたから確かだよ。でも、どうしても言えないんだって。今、私の家に詩織が来てるんだよ。黒川君ちの近くに連れて行くから、二人で話したら?」

 しばらく静かになった後、いそべえがモタモタした口調で言った。

「僕の…家の近くに公園があるんで、そこに連れてきてもらえますかね? …場所は、しー坊に言えば、分かるはずなので」

 悠は「分かった」と言った後、いそべえに一つだけ「お願い」をした。

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