言えないことは… 4/12 ~詩織も、絵に惚れ込む~

「この計算が終わった人は持ってきてください。正解ならそれで授業終わり。間違ってたら席に戻ってまた計算して、持ってきてくださいね」

 詩織が去年単位を落として再履修中のこの授業は、とにかく課題提出がめんどくさい。毎回の授業で税金に関する計算問題が出るのだ。

 式や計算に必要な表は配られるし、電卓も使っていいのだが、内容が複雑なのと、先生の資料の作り方が乱雑で分かりづらいのとが合わさって、毎回頭から湯気が出そうになる。

 汗が出てきた頭を掻きむしりたくなるのをこらえながら、資料の記述をあっちへこっちへ飛び回り、必死でメモを取って電卓をはじく。その詩織の脇を、一人の学生がスタスタと通り抜けた。

「お、また早いですね。ええと…はい正解。お疲れ様でした」

 毎回一番早い女の子だ。早いのはいいのだが、いつも提出した後、教室の前で友達らしい他の学生二人を待っている。そして授業が終わった後もその場でおしゃべりを楽しむ。

 つまり彼女らは、詩織が毎回クラスで一番遅く、場合によってはクラスで唯一人再提出したりしている事を知っているのだ。顔を覚えられたくない。…もう覚えてるかもしれないけど。

「はい正解。お疲れ様」

 一人また一人と学生がいなくなる。

「はい……あ、これ違うな。やり直し」

 やーいやーい。

「はい正解。お疲れ様」

 さっき間違えた学生も再提出して、もう終わってないのは詩織一人だ。

「あのね垣沼さん、私この後、人と会う約束あるんでね。もう行かないと」


―― 名前呼ぶな!


「研究室にはいますから、いつもみたいに後で持ってきてください」


―― 「いつもみたいに」って言うな!


「万が一この前みたいに夜七時までに終わらなかったら、研究室のポストに入れておいてください」


―― 言うなあああ!


 先生がいなくなって、教室にいるのは詩織と例の学生三人だけになった。続きは図書館でやろうと、立ち上がって荷物を片付け始めると

「あれ?」

 学生三人のうちの一人の男の子が、詩織の顔を見た。


―― やば…。


「すいません、ひょっとして宝洋軒の…」


―― ハァ?! 何これ最悪!!


「テラ盛り……あれ?」

 二回目の「あれ?」を聞いて詩織が彼の顔をきちんと確かめると、見覚えのある顔だ。彼は確か…

「池谷君…だよね? こんにちは。久しぶり」

「やっぱり! 前に製環(セイカン)研究室に来た人ですよね? いそべえさんに会いに。垣沼さんって言うんですね。……あっ、垣沼詩織! しー坊?! あだ名しー坊ですか?」

 どんどん素性が割れていく。出来ればこれ以上知られたくないのだが。

「うん。しー坊って呼ばれてる」

「やっぱり!! いやー、今まで全然気づかなかったですよ。宝洋軒のテラ盛り食べてますよね? 店に写真ありますよね?」

「…うん」

 返事をした瞬間、他の二人の女の子が顔を広げて驚いた。

「えっ! あれ食べきったんですか?! ねえ池谷、宝洋軒のテラ盛りって、美術科の新歓でいそべえさんに連れて行ってもらったあれだよね?」

「そうそう! 俺がギブアップしたやつ」


―― いそべえっ! 何やってんのアイツ! マジで最悪!!


 最後に、「いつも一番早い女の子」が優しい笑顔で話しかけてきた。

「この授業いつも課題大変ですよね。今回のは二枚目の資料の式を展開していけばすぐ解けます。再提出でも、最終的に解ければみんなとおんなじですよ」



                  *



 その日の夜、岡本食堂にはいそべえが来ていた。今日はお客の入りが少ない。いそべえはカウンター席でゆっくりモツ煮込み定食を食べながら、悠に話をしていた。

「その授業しー坊がいつもクラスで一人、一番遅いそうなんですよね。で、今日もそうだったみたいで。池谷が今日初めてしー坊の存在に気付いたらしくて、僕に教えてくれたんですけど」

 注文が出てくるまで暇になった悠は、カウンターに手をついていそべえの話を聞いている。

「その時いよかんっていう美術科の一年生が、しー坊を見て『この人だ!』って思ったらしいんですよね」

「いつも一番早い女の子」は、いよかんだったのだ。見た目の雰囲気が似ているのとは裏腹に、いよかんは詩織と違ってレポートにしろ模擬授業にしろプレゼンにしろ、とにかくあれもこれも器用にこなす。先生に感心されないほうが珍しいくらいだ。

 単位も普通の一年生の倍近く取っているし、美術の中でも絵画に関しての知識、技術は院生も敵わないほど長けている。

「絵のモデルに?」

「はい。まだシルエットしか描かれてなかったんですけど、しー坊に会ってから絵に向かい合ったら、一気に浮かんできたらしいですね。それで僕に連絡きて」

「へえ。詩織にはもう連絡したの?」

「さっきしました。でもこの時間は…」

「あ、そうか…バイトだ」

 二人とも知っているが、今日は詩織にとって一週間で一番キツイ日だ。授業もびっしりだし、そのうちの一つがあれ。そしてバイトに行って、大抵何か一つ失敗して注意される。

 もっとも、あまりに失敗が多くて最近はろくに注意もしてもらえなくなっているらしいが。

「ねえ黒川君、『いよかん』って男? 女?」

 悠はそれが気になっていた。理由は特にない。何となくだ。宝洋軒の一件から若干険悪な詩織といそべえ。少しきな臭いにおいがする。

「女の子ですね」

「ふーん…詩織は自分が会ったのが、いよかんって知ってるの?」

「いえ、知らないですね。まあ、知らなくても僕が頼めば、モデルのお願いはオーケーすると思うので、会った時に自己紹介すればいいかなって」

 はっきりきな臭いにおいがする。

「お願いする前にあらかじめ言っときな。あの時会ったのがいよかんだよって」

「でも、もうさっき連絡してお願いしちゃったので…」

「追加連絡!」

 いそべえは慌ててスマホを取り出した。いそべえには、なぜあらかじめ言っておいた方がいいのかは分からなかったが、詩織の親友である悠の言葉は無視しない方がいい。ところが

「あ、もう返事きてますね」

「ええ! 何て?」

「『いいよ』って…」

 悠は「うーん」と唸った後、厨房から出てきた料理をお客へ運んでいき、戻ってきていそべえの隣に腰かけた。

「とにかく早めに教えといた方がいいよ。でも今となっては、活字だけで教えるのは危険な気がする。顔を合わせて教えてあげな。美紀ちゃんもいるといいかも。もちろん私でもいいけど」

 超ナイーブな詩織が、自分よりずっと優秀な後輩と知り合いになるのは心労が大きい。悠はそう考えていた。それで心配しているのだが、いそべえにはイマイチ伝わっていない。

「ああ…分かりました」

 そう返事はしたが、結局いそべえはそれっきり忘れてしまった。



                 *



 土曜日の朝、いそべえと詩織は絵画研究室に向かっていた。これからモデルの仕事だ。仕事と言っても、バイト代が出るわけではない。でも、お昼は向こうのおごり。あと、全部終わったら絵画制作する部屋の隣にある準備室で、お菓子を食べながらおしゃべりをする予定になっている。

「あのさ、時間どれくらいかかるの?」

「お昼休みを除くとトータル五時間だけど、三十分ごとに十分休憩挟むから」

「そうなんだ」

 詩織は割と乗り気だった。この絵は完成したら他大学との合同展覧会に展示されるらしい。自分がモデルをやった絵をみんなが見にくる。悪い気分はしない。

 洋画研究室は暖房がかなり効いていて、空気がもわんとしていた。それに、絵具やオイルの臭い匂いがきつい。

 詩織が入ると同時に脇から声が飛んできた。

「おはようございます」

 反射的に「おはようございます」と返事をしながら声の方に向いた詩織に、衝撃が走った。


―― この子…!


「今日はよろしくお願いします。美術科一年の神田泉夜(いよ)です」

「ああ…それで『いよかん』…よろしくお願いします」

 いそべえは詩織が見せている笑顔が少し曇っているとは全く気付かずに、ご機嫌でいよかんの絵を指さした。

「ほらしー坊、あれだよ。すごいでしょ」

 進められるまま近付いて見ると、素人の詩織が見ても見事な絵だった。筆致も色使いも力強く、何か訴えかけてくるものがある。しかし中央の女の子はまだシルエットのまま。最後にはここに自分が収まるわけだ。

 いそべえが「ん?」とつぶやいた。

「この前からまた描き込んだ?」

「え、分かるんですか? さすがですね。キャンパス内の景色は前より色を強く出して、コントラストを強調しました」

「やっぱり。あと、これって…」

 いそべえが指さした部分を見て、詩織もはっととした。澄んだ青空の中に、風になびく紅葉した無数の木の葉。それを茂らせるまっすぐで太い幹。これは…

「あ、それ描き足したんです。学内最大のケヤキです」

「そうだよね! 俺も知ってるよ。あそこ気分落ち着くし、いいよね」

 いそべえが知っているのは、詩織が教えたからだ。

「そうですよね。私も好きなんです。嫌な事とかあると、あそこで一人になるんですよ。人があんまり来なくて、くつろげる穴場ですよね。根元に『R』って彫ってあるの知ってます?」

「知ってる知ってる」

 これも、詩織が教えた事だ。(※木に傷をつけるのは、やってはいけない事です。絶対にやめましょう)

 いよかんがこの場所を知っているとは。そりゃあ、ここの学生だから、知っていてもおかしくはないが、詩織には何となくショックだった。その傍ら、いそべえといよかんはさらに絵の話で盛り上がっている。

「いよかーん! 俺たち描き始めるけど!」

 部屋の少し奥にいる鉛筆を何本も握った学生がそう叫んだ。必要以上に声がでかい。奥にはその男子学生と女子学生、そして女の人が、モデル用の台座に座っている。

「あ、はい。私たちも始めます」

 いよかんはそう返事をすると、詩織に振り向いた。

「すみません、向こうと作業時間合わせないといけないので、初めていいですか? こっちの台座にある、あのブロックの上に座ってください」

 絵の設定は屋外。詩織は上着を着たままブロックの台座に腰かけた。いよかんに教えられて投げキッスのポーズをとり、その状態で固まる。

 研究室は相変わらず暖房がガンガン効いていて暑い。ちょっと強すぎじゃ…と詩織が思った瞬間、目線の先にあるもう一つの台座の上で、モデルの女の人が羽織っていた服を脱ぎ、全裸になった。


―― えぇっ、ら、裸婦デッサン?! 私、裸の女の人に投げキッスしてる!!



 お昼はデパ地下で売っている高級シューマイ弁当だった。いよかんが三人分買ってきてくれたらしい。準備室で三人一緒に食べながらおしゃべりを楽しむ。と言っても、楽しんでいるのは二人だけだ。

「いそべえさん、後ろで見ててどうでした? 私の描き方。アドバイスあります?」

「え、俺よりずっと上手いから、アドバイスすることなんかないよ。腰からお尻の辺り、後ろに回り込んでく部分に水色さしてたけど、あれ効いてるね。あれで形がぐっと出てきたよね」


―― どこ見てんだよこいつ。


 詩織はたまにおしゃべりの相手をしながらシューマイ弁当を食べていた。全然足りない。この倍は食べたいが、おごってもらっている手前そんな事は言えない。怖いのは足りない事自体ではなく、モデルをやっている最中にお腹が鳴ってしまう事だ。

「始めちゃうよー! 部屋閉めちゃうよー!」

 さっきの学生が叫んだ。また必要以上に声がでかい。「今行きまーす」といよかんが大声で返事をして、三人で慌てて制作に戻った。

 案の定その後の制作はずっと、詩織のお腹が鳴りっぱなしだった。食べ物は持ってきていないし、買いに行く時間もない。詩織はお腹が鳴る音がいよかんやいそべえに聴こえていないことを祈りながら、ずっと裸の女の人に投げキッスをしていた。



                 *



「うわあ…すごい……」

 詩織も思わずそうこぼした。出来上がった絵は実に見事。雲のように浮かぶ景色達に投げキッスする女の子。目鼻立ちは確かに詩織に似ているが、少々顔立ちは整えてある。キスをしている分表現に制約があるのに、軽く笑っているのがきちんと分かる。

 幸せそうで、それでいてどこかブルーな雰囲気を漂わせて、優しくて哀しくて、純朴な笑顔だ。詩織はその表情に一目で惚れ込んでしまった。

「可愛いなあ。この子」

 いそべえもそう言った。確かにそうだが、いそべえが言うのは何だか癪に障る。

「いやー、正直思ったより上手くいきました。表情が心配だったんですけど」

「表情! 表情いいよすごく。めっちゃ可愛いよね」

 やはり、いそべえも詩織と同じく相当気に入っているらしい。

「俺にも見せろよ。おおー、いいねえ!」

 さっきの男子学生が入り込んできた。この人は毎度毎度必要以上に声がでかい。

「相変わらず上手いな。モデルにも似てるし。でも表情は完全にいよかんだな!」


―― !


「え、私こういう顔してます?」

「してるしてる。やっぱり、顔の造形は他人に似せても、表情は自分になっちゃうよな。そういうもんなんだよ」

 勉強も絵も人より上手で、表情も他人を魅了する。世の中不公平だ。詩織はモヤモヤした気持ちでカバンから水筒を取り出した。中には暖かいお茶を入れてきたのだが、研究室は思ったより温かいと言うか暑いし、それにもう冷めているだろう。水筒を片手で抱いて、確かめてみる。

「あ……」

 いよかんが詩織を見てぽかっと口を開けた。

「垣沼さん、それ素敵です! 水筒抱かせたいな…うんその方が絶対いい!」

「あ、確かに水筒抱いてると、冬の寒い屋外を演出できるかもね。その方が投げキッスが温かい感じ出るね」

 いそべえも明るい声でいよかんに同意した。

「垣沼さんすいません! 来週もう一回お願いできませんか?」

「土曜は暇だよね? 出来るよね」

 詩織を無視して話が進んでいく。

「次はそんなに時間かからないと思うので…そうだな二時間。あ、いや一時間あれば描けます。お願いできませんか?」

「出来るよね?」

 いよかんもいそべえも、もう絵の事しか見えていない。何となく断りづらい。

「うん…。大丈夫」

 いよかんは満面の笑みを見せた。

「ありがとうございます! 今日はシューマイ弁当一つですいませんでした。テラ盛り食べちゃう人ですもんね。次はもうちょっと食べ物用意しておきますから!」

 そのいよかんの隣でいそべえはまたニヤニヤ顔を詩織に向けていた。



                  *



 制作が終わった後の雑談会を詩織は「急用ができた」と嘘をついて断ってしまった。いそべえといよかん、それにあの声のでかい男子学生を研究室に残して、詩織は一人で自転車にまたがった。


―― また嘘ついちゃった。いよかんは何も悪い事してないのに、才能のある人に嫉妬して、相変わらず最悪だな私。…いよかんはあんな素敵な表情するんだ。可愛いだろうなあ。本当に不公平な世の中だよ全く。


 もう暗くなって、十二月の冷たい夜風が容赦なく吹き付ける。暖房ガンガンの研究室内で上着を着たままモデルをやって、詩織は汗をかいていた。体がどんどん冷えていく。


―― 寒い。ああもういそべえっ! 全部あいつのせい! ……悠、もう家に帰ってるかな?

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