ちっぽけなこと 4/5
今日は土曜日。岡本食堂を出たあり姐は駅から歩いて十分ほどの公園に来ていた。詩織、美紀、いそべえ、宮ちゃん、それにバックさんもいる。みんなでバドミントンをする約束だった。
「え、あり姐、風邪ひいてるの?」
いそべえがそう言ったのを皮切りにみんなちょっと騒ぎ出した。
「あり姐風邪ひいてんのか? 寝てろ家で! 俺にうつったらどうすんだよ!」
「真田さん、今日はちょっと肌寒いしさ、家であったかくして寝てた方がいいよきっと」
「お前! じゃ今日バドミントンできねーじゃんか!」
バックさん、詩織、それにラケットを振り回す美紀に対してあり姐は手のひらを横に振った。
「大丈夫。そんなにひどくないから。あっちのベンチで座って見てる」
「あり姐、やめた方がいいよ。風邪ひいたなら、連絡くれれば……」
「はあ?」
あり姐は宮ちゃんを遮って睨み付けた。
「したから。連絡」
「え? ……あ、あれ?」
宮ちゃんは慌ててポケットの携帯を探る。
「朝は連絡するようにしようって言ったの自分でしょ。なのに気付かないとか、責任感なさすぎ。どうせまたゲーセン行ってて気付かなかったんでしょ。ほんっとしょうがない人だよね」
「いや、ゲーセンに行ってたわけじゃ…」
「おお! よく分かったなあり姐! 今日はいつもの俺と宮ちゃんだけじゃなくて、いそべえも一緒だったぞ!」
宮ちゃんがあたふたしている隙に、バックさんが相変わらず必要以上にでかい声で入ってきた。隣で「しー」とジェスチャーしているいそべえのことは、視界に入っていないらしい。
「いそべえはあのゲーセン初めてだったからな! 俺と宮ちゃんで紹介ツアーやろうって、二人で昨日の夜話し合ったんだよ! いそべえ、楽しかったろ!」
「……そうですね」
「昨日の夜?」
あり姐の眉間のしわがさらに深くなった。
「私も昨日の夜、連絡したよね。返信来てないけど。なんで?」
「いや…」
「……ほんっとありえない」
あり姐はくるっと方向転換してベンチへと歩き出した。宮ちゃんがゆっくり後を追いかけていく。
「あり姐、ぜってーあれ言うためだけに来てんな」
美紀が詩織の耳元で囁いた。あの二人はいつもこんな感じだ。
*
「ねえ、ごめん」
公園からの帰り道、宮ちゃんはそっとあり姐に謝った。
「……」
「ごめんって。気付かなかったんだよ」
送りながらずっとそのことを謝っている。あり姐の機嫌は一向に治らない。
「ねえ、ごめんって」
「あーもう、ほんっとねちっこい。気付かないとかゲーセンがどうとか、もうどうでもいいから」
「でも…」
「でもじゃないでしょ。もういいって言ってんだから、いつまでもグチグチ言っても意味ない」
「じゃあ、コンビニで何かおごるよ」
宮ちゃんがそう言った途端、あり姐は舌打ちした。
「おごってお詫びとか、私そういうの、ほんっと嫌いなの。お金出せば解決すると思ってるの? そういう考え方って低俗」
「ごめん」
「ごめんとかもういいから」
宮ちゃんからすれば八方塞がりだ。「もういい」はあり姐が公園にいる時から言っているセリフだが、もういいと言いつつ、機嫌はずっと悪いまま。あり姐の家まで、宮ちゃんは黙ってついて歩いた。
「ねえ、さっき悠さんから私に連絡来て。みんなでHohtan展行こうって」
「ああ、書道科のやつだね」
「垣沼さんとかいそべえも誘っといて」
「うん。分かった。あ、あり姐ちょっと待って」
さっさとアパートに入ろうとしたあり姐を宮ちゃんが引き留めた。
「何?」
「風邪ひいてるなら、俺が何か夕飯作ろうか?」
「はあ?」
あり姐は宮ちゃんを睨み付けた。
「私のうちに入る気? ほんっとに、何考えてんの?」
彼氏が彼女の家に入るというのは、あり姐の中では常識外れらしい。
*
Hohtan展は、出品している学生の友達や親、先生なんかがチラホラと来ているだけで、あまり盛況とは言えなかった。だから、黛君、朱木さん、悠、あり姐、阿部君、さらに詩織にいそべえ、宮ちゃん、美紀という合計九人の大所帯客はかなり目立った。
「なんて書いてあるの?」
「……分かんない」
一応悠も詩織も小声でやり取りする。大学で国語を専攻している詩織にも分からないらしい。いそべえが詩織の肩を突っついた。
「下のキャプションに書いてあるよ。これは『曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く』って書いてあるみたいだね。伊達政宗の辞世の句だって」
「あー…」
詩織は腑に落ちたらしいが、悠は相変わらずよく分からない。
「何? 『じせいのく』って」
「死ぬときに読む歌のことだよ」
「死ぬとき? 昔の人って、もう死ぬってときに歌なんか読んでたんだ…」
「うーん、まあ、死ぬ瞬間ってわけでもないんだけどさ」
「え、じゃあいつ?」
「……人による。タイミングのイメージとしては、遺言書に近いよきっと。死んだ時のために残しておくっていうかさ…」
「ふーん……」
悠はもう一度書を見た。最初の字は『雲』のはずだ。……悠から見ると、字というより黒いうねうね。
「どうしてそれを書いたのかな?」
「……分かんない」
「フッ…」
鼻で笑う声が聞こえて二人は振り向いた。黛君が後ろから見ていたのだ。
「書っていうのは、そう言うこと考えながら見るもんじゃないんですよ」
「ふーん……」
鼻で笑われて気分が悪くなった悠はすぐに書に視線を戻した。黛君は得意げに解説を始める。
「まあ、例えばこれだったら……多分これ書いた人は、単純に伊達政宗大好きなんでしょうね。線の太さの変化とか、一文字一文字の大きさと全体のバランスが迷いなくコントロールされてるし。ほとんど同じものを相当たくさん書いたと思いますよ。その中で一番『整った』のがコレだったんでしょうね。まあでも、整い過ぎかな。大好きならむしろ、勢いと思い切りの良さを見たいけど、これは完璧に構築されすぎっていうか……まあ、そのへんは好き好きですけどね」
悪口スレスレだ。
「あー、確かに全体のバランスに隙が無い感じは私もしますね」
黛君の後ろにつく朱木さん。彼女は黛君と話したいがためにここに来たのに、黛君にはほとんどかまってもらえていない。
悠はあえて伊達政宗の辞世の句をじっと眺めて、黛君の通り過ぎるのを待った。鑑賞を黛君に邪魔されたくないのではなく、ゆっくり見ている阿部君が気になるからだ。結局、あんまり遅い阿部君にしびれを切らし、悠は阿部君の元へと歩いて近付いた。
「阿部君、どう?」
阿部君はふわっと笑顔になった。初めて見る顔だ。
「よく分からないです」
今は小さい声に耳が慣れていて、阿部君の言葉が(比較的)楽に聞き取れる。
「正直、私もよく分かんないんだよね」
悠と阿部君がそのまま一緒に見ていると、目の前に大きな絵が現れた。一メートル四方……いや、もっと大きい。
中央にバベルの塔のような建築物がそびえ、その通路や階段、そして足元の広場には、日本の鎧兜を付けた侍がひしめいて行進する。
ごうごうと風が吹き付ける中、侍たちが掲げたのぼりが曇り空の下てはためいていた。そして、画面の奥の奥、遙か彼方の地平線のあたりは、光が差し込み、小さな虹がかかっている。
タイトルは「寄り道中の嵐」
なかなか迫力のある絵だ。……だけど、何で突然一枚だけ絵が展示してあるのだろう?
悠は阿部君をチラリと見た。阿部君は絵のタイトルが書いてあるプレートを凝視している。
その奥では、朱木さんが何だか気まずそうな笑顔。さらに奥では、黛君が絵を見ながらクスクス笑っている。
「意味分かんねえなあ……クフフッ」
完全に馬鹿にしている。ここは出口のすぐそこで、声が聞こえる所にスタッフをやっている書道科の学生がいる。もし絵の作者もそばにいたらどうするつもりだろう。それで朱木さんもちょっと困っているらしい。
「何だよコレ。群像が描きたかったの? にしちゃ変なコンセプト付け足しすぎだよ。何で日本の甲冑武者にしちゃったかな。全く意味不明だろ」
「なるほど……これは、作者の意図が気になりますね……」
朱木さんは出口の方をチラチラ気にしている。
「色も汚ねえな……。甲冑もみんな同じ色で、遠くから見ると群像だって分からねえし。ホント、何なんだよコレ。逆に写真撮っとこうかな。友達に見せたいわ」
クスクス笑う黛君。悠の視界には彼と朱木さんだけでなく、さらに奥にいる詩織達もいる。ほとんどみんな、怪訝な顔つきで黛君を見ているが、彼本人は全く気付いていない。
一人、黛君の元へ近づいてきた。
「ちょっと。何思っても勝手だけど、口に出すんだったら時と場所を選ばなきゃダメでしょ。同じ場所で絵を見てる人がいるのに、好き勝手言い過ぎ」
あり姐。黛君と言葉を交わすのは、これが初めてだ。
「あ、すんません」
注意されても、へらへら笑って反省する様子も特にない黛君。しかもポケットからスマホを取り出した。本当に写真を撮るつもりらしい。
「写真撮って晒し者にして楽しむとか、性格悪すぎ。もうちょっと描いた人の気持ち考えなきゃダメでしょ」
「え、でもこの展覧会、写真撮影オッケーですよ? 撮った写真何に使うかなんて分からないじゃないですか」
「今言ってたでしょ。友達に見せるって」
「友達に見せるのの何がいけないんですか?」
黛君は自分に突っかかってくるあり姐が気に入らないらしく、だんだん苛立ちを見せ始めた。
「散々馬鹿にした挙句『逆に』写真撮るって言ってたでしょ」
「馬鹿になんかしてないですけど」
あり姐は振り返っていそべえを呼んだ。
「いそべえ、作者そこに来てるでしょ。さっき見かけたから。連れて来て」
いそべえは困惑気味。
「えっ……いや、それはちょっと……」
「いそべえが行くか私が行くかの違いだけだから。早く」
自分が行かなければあり姐が乱暴に引っ張ってくるだけ。それを理解したいそべえは、仕方なく出口の方へ歩いていくと、すぐに作者の女の子を連れて来た。いよかんだ。
泣いている。
あり姐は自分の隣にいよかんを立たせて、手を握った。
「さっき、この絵に言ってたこと、もう一度言って」
悠はあり姐の強引なやり方が不安だったが、いよかんのことはあり姐の方がずっとよく知っているし、止めた方がいいならいそべえ達が止めるだろうと、思いとどまった。
「さっき? 俺、何て言ってましたっけ?」
空っとぼけている。
「今更そんなこと言って逃げても遅いから。この子、向こうで全部聞いてたし。問題はあなたが作者のこの子に面と向かって言えるかどうかでしょ。言えないなら、そんなの腰抜け。散々偉そうなこと言って、表に出たら何一つ相手に胸張って言えないなんて、ダサすぎでしょ」
「ハァ?」
黛君はガラの悪いヤンキーみたいにあり姐を睨み付けた。だが、この程度であり姐がひるむはずもない。『ハァ?』とか、どうでもいいから。という雰囲気で、黛君の次の言葉を待っている。
「お前さあ、さっきは『何思っても勝手だけど、言うなら時と場所を選べ』とか言ってたじゃねーかよ。それで今は『面と向かって言え』とか、完全に矛盾だろ。その場その場でテキトーに理屈こねてんじゃねーよ」
「適当じゃないから。周りに楽しんでる人がいるのに悪口言うなっていう話と、作品に文句があるなら作者本人に直接言えって話でしょ。何も矛盾してない」
「俺、別にお前らに興味ねーから」
黛君はそう吐き捨てて、あり姐といよかんを横切った。
「ほんっと、腰抜け」
あり姐が明らかに聴こえる音量でそう言った瞬間、黛君はサッと振り返った。顔は笑っている。
「知ってんぞ。お前、不倫して大学から逃げて、何にもしないでグータラしてるダメ人間だろ。オメーだよ腰抜けは。何にもしねーくせに飯だけ食いにうちに来やがって。営業の邪魔なんだよ。二度とうちの食堂に入んなよ」
悠はここぞとばかりに割って入った。
「それは君が決めることじゃないから!」
黛君は悠に返事もせず、とっとと帰って行った。朱木さんもこの場には居づらかったようで、黛君を追いかけて行った。
なぜ黛君は、あり姐の事情を知っていたのだろう。
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