ちっぽけなこと 3/5



 次の日の朝、いそべえと宮ちゃんは、大学のウッドデッキの脇を二人で歩いていた。


「いそべえ聞いた? いよかんが…」

「ああ、聞いた聞いた。また嵐が来てるらしいね」

「そうなんだよねえ。俺、昨日偶然会ったんだけど、『お疲れ』って言ったら目を合わせたうえで無視されちゃったよ」

 いそべえは笑いながら「ええ?」と驚いた。

「無視? それはあんまりだね」

「まあねえ。でも、バックさんの話だと……」


「いそべえー、宮ちゃーん!」


 二人は自分達を呼ぶ声に振り向いた。ウッドデッキの上から詩織が手を振っている。二人は「おはよー」と手を振り返した。すると詩織は


「たすけてー!」


 二人は驚いてウッドデッキの入り口の階段まで走っていった。いそべえが先に上ると


「気を付けてっ!」

 詩織が背中を向けたままそう言った。なんでこっちを向かないんだ?


「足元! ナメクジいっぱいいる!」


 いそべえと宮ちゃんが足元をよく見ると、ウッドデッキの上は一面、百や二百ではきかない大量のナメクジがひしめいていた。驚愕のナメクジ天国。湿気が気持ちよくて出てきたらしい。

 詩織はそのナメクジ天国のど真ん中で、二人に背を向けて突っ立っている。


「よく見てなかったんだよ! 気付かないでここまで歩いちゃったの! そしたらさ、ナメクジいっぱいいた! 動けなくなっちゃったんだよ! ひょっとしたら私、もう踏んづけて…」

「ああ…。えーっと…」

 いそべえが詩織の歩いた後を確認しようとすると、詩織がまた声を上げた。

「いい、いい!! 踏んだかどうかとか、確かめなくていいから早くこっちきて! ナメクジが足のぼってくる!」


 のぼってこないでしょ、とか言うと詩織の怒りを買いそうだ。いそべえは黙って詩織の隣まで気をつけながら足を進めた。


「お待たせ。でもしー坊、どうしてほしいの?」

「あのさ、このまま向こうの出口から、ウッドデッキを出たい」

 詩織は視線の先の階段を指さした。

「え、あっちから? でも、今俺たちが上ってきた出口の方がずっと近いよね?」

「振り返りたくない! だってさ、もし踏んづけてつぶれたナメクジが…」

 遅れてきた宮ちゃんが後ろから声をかけた。

「大丈夫だよしー坊、今見たけど、踏んづけてないから。振り返っても平気だよ」


「嫌! 二人が気付いてないだけかもしれないから! 私は気付いちゃうかもしれない! とにかく向こうから出るから、二人とも私がナメクジ踏まないように、私の足元チェックして! 私じゃ気付かないかもしれないから!」

 ちょっと矛盾しているようにも聞こえるが、とにかく従うしかない。三人は十分以上かけて、ウッドデッキを脱出した。


「ぃよっと! ありがといそべえ」

 詩織がいそべえの手を借りて階段の最後の段を降りた。それと同時に詩織の後ろにいた宮ちゃんが二人のさらに向こうへ、視線を送りながら手を振った。

「おはよー」


 詩織といそべえの二人がふと見ると、そこにいたのはいよかんだった。チラリと三人を見るが、何も言わずに角を曲がって、速足で歩いていく。


「……あのさ、いよかん、何かあったの?」

 むすっとしたいよかんの表情は、詩織にも気にかかったらしい。いそべえは笑みをにじませて「んー」とうなった。

「公募展落ちちゃったんだよね」

「公募展って?」

「応募して受かった人だけ展示してもらえる展覧会なんだけど、絵が送り返されてきたらしいよ」

 詩織が「へえ」とこぼすと宮ちゃんも事情を教えてくれた。

「それに加えてねえ、同じ一年生の河野と辻居は受かったんだよ。落ちたのは、いよかんだけ。それでもう、大嵐! 物にも人にも当たるし、今みたいに返事しなかったり、約束してても来なかったり……。みんな困ってるんだけど、本人にも『まわりに迷惑かけてる』って自覚あってねえ。みんなとりあえず放っておいてる…って感じなんだよねえ」




                *




 今日も岡本食堂のお昼は、悠、あり姐、阿部君の三人だ。メニューは、かき揚げ入りにゅうめん。大将の許可をもらって悠がお店で揚げた、帆立入りかき揚げだ。


「すぐのびちゃうから、サッと食べてね。熱いけど」

 三つのどんぶりが乗ったお盆を悠が運ぶ。あり姐のかき揚げは悠達の半分の大きさだ。なぜなら。

「ズッ……ありがとうございますズッ…」

 マスクの奥から鼻をすすりながら、あり姐はどんぶりを受け取った。風邪をひいたのだ。


 実は、にゅうめんというメニュー自体も、あり姐の風邪を意識して作ったものだ。普段はまかないのメニューは、肉うどんとかマーボー豆腐丼とか、もう少しスタミナがつく(と思われる)ものだ。

「さ…」

 阿部君があり姐に何か言った。が、よく聞こえない。あり姐は顔を少し近づけた。

「ん?」

「さ…さん、お……に」


「あ、『お大事に』って? 阿部君、声小さすぎ。もっと大っきな声で言ってよ。ありがとね」

 あり姐は阿部君ににっこり笑いかけると、にゅうめんを持ち上げて息を吹きかけた。

「あー、ほんっといい匂い。鼻つまってても分かります」


「そうでしょ。でも今日は七味はやめときな。一応ね。まかないでにゅうめん作ったの初めてだなー。阿部君どう? おいしい?」

 阿部君はもぐもぐ口を動かしながら無言で悠にうなずいて見せた。

「そう。ならよかった」


 三人がにゅうめんを食べていると、食堂の扉が開いた。

「お疲れでーす」

 黛君だ。入ってくると、テーブルの一つにトン、とおしりで座った。そして開口一番

「ええ? 風邪ひいてんですか?」

 にゅうめんをすすりながら鼻もすすっているあり姐を指さしながら、そう言った。馬鹿にして鼻で笑っている。

「ここ飲食店ですからね? 気を付けてくださいよ。自分でテーブルとか食器とか……っていうか、従業員じゃないんだから、そもそもここで食べるのは…」


 悠は正職員の自分をガン無視してあれこれ注意する黛君の態度にカチンときた。

「ちゃんと気を付けてるから大丈夫。それより黛君、テーブルから降りな。従業員なんだから、そういうとこちゃんとして」

 黛君は大きく息を吸い込んでゆっくりと言った。

「ちゃんと気を付けてるから大丈夫、です」

「じゃあ降りな!」

 フン、と荒く鼻から息を吐くと、黛君はテーブルから降りた。


 黛君の態度が原因とはいえ、場の雰囲気を悪くしてしまった。食事がすむと、悠はあえてあり姐をすぐに店の外に出した。

「真田さん、ゴメンね。彼の言うことは気にしなくていいから」

「あ……でも」

 あり姐はやはり気にしているらしく、声やしぐさがどことなく申し訳なさそうだ。


「阿部君、最近少しずつ明るくなってきてるんだよ」

 突拍子もないことを言われ、あり姐は「え?」と聞き返した。

「前は表情も真っ暗だったし、返事もこっちが二回聞かないと返ってこなかったりしてたから。今は一回で返ってくるし、表情も明るくなることもあるし」

「あー、そうなんですか……」

 あり姐はまだきょとんとしている。


「たぶん、真田さんのおかげだと思うんだよね」

「え? そうですか?」

 あり姐は目を軽く開いて驚いた。

「うん。『お店とは関係ない真田さんが、自分に優しくしてくれる』っていうの、結構大きいよ。人間関係が広がってるってことだし」

「ああ…」と、あり姐は何度かうなずいたが、あまりピンとこないらしい。


「本当だよ。だから、真田さん来てくれて助かってるの。これからもちょくちょく食べに来てね」

 あり姐は小さい声で「はい」と言うと、いつものように三百円を悠に手渡して帰っていった。




                *




 夜の営業開始が近づき、学生のバイト達も集まってきた。営業が始まる直前と、お客が増え始めるまでの十分ほどは、ちょっとしたお喋りタイムになる。


「黛さん、今度これ一緒に行きませんか?」

 黛君に何かのチラシを渡したのは学生バイトの朱木あかきあおいさん。あだ名はシンゴウらしいが、岡本食堂ではあまり使われていない。詩織の大学の一年生だ。


「何これ」

 黛君はチラシを受け取って眺めた。

「あの、うちの大学の書道科学生の展覧会です。私の友達が出品してるんで、本人に教えてもらったんですよ。学内で、入場無料なので……」

「学生のか……。まあ無料なら。行く」

 黛君はかなりの多趣味、それに博識だ。文学、歴史、科学、美術、音楽、書道、そして専門分野の政治と経済。どれもしゃべりだすと止まらない。

 そして、朱木さんはそんな黛君に思いを寄せている。だが悠の見立てでは彼女は黛君の、一流大学に通っていて多趣味、博識、という部分に惹かれているだけで、人柄はそんなに見ていない。


「悠さん、朱木と同じ大学の知り合いいるんですよね。一緒に行きませんか?」

 黛君は悠に大きな声で声をかけてきた。なるほど。朱木さんにちやほやされるのは気分がいいけど、彼女と距離が近くなるのは面倒くさい。だから悠を誘う、というわけだ。


「んー……いいね…。阿部君、一緒に行く?」

 悠は阿部君の肩に手を置いた。正直、黛君と朱木さんの二人と一緒に行っても、たいして楽しくない。バイト以外基本ヒマな阿部君を誘って、さらに詩織とかいそべえとかあり姐や宮ちゃんも誘って、にぎやかにしてしまおう。


「え……」

 阿部君が出不精なのは知っている。そして、押しに弱いのも知っている。

「来なよ。普段見ないものを見るのって楽しいよ。あり姐も誘って一緒に。ね?」


「は……」


 よし。OKだ。



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