鏡 6/6 ~鏡が彼にあたえたもの~
水曜、約束通り美紀は、午前だけの授業を終わらせると詩織のうちへやってきた。部屋着みたいな着古しのフリースにダボッとしたズボン。今日もアクセサリーやカラコンはなしだ。普通のメガネを普通にかけている。
「はいこれ。一応持ってきた」
美紀が差し出したのはジュースとお菓子が入ったレジ袋だ。これから夜まで詩織のうちでゴロゴロして、一緒に夕飯を食べる。
「悠さんは?」
美紀は和室にあぐらをかいて、カバンから漫画とDVDをいくつか取り出した。
「夕飯の買い出しに行ってる。さっき出たばっかりだから、もう少しかかると思うよきっと」
お皿に開けたポップコーンを美紀は一つだけ口に運んだ。前までは手のひらに山盛りにして、口に流し込むように食べていたのに。
「悠さんってさあ…」
美紀は最初の一個のポップコーンをしつこくいつまでもモグモグ噛んでいる。
「うん」
「かっこいいよね。頼りになるし、メッチャ優しいし、しゃべる雰囲気もさっぱりしてて、ねちっこくないし」
発音が丁寧だ。前までなら『かっこいい』は『かっこい』、『頼りになる』は『頼りんなる』、『優しいし』は『優しし』、『雰囲気』にいたっては『ふんき』になっていただろう。
「確かに優しいよね悠は」
「それに、強い女だよね。折れない、曲げない、迷わないって感じで」
詩織は「ふふふ」と少し得意げに笑った。
「悠はさ、ホントはそんなに強いわけじゃないんだよ」
美紀は詩織の予想通り、不思議そうな顔を向けてきた。
「そうなの?」
「弱いとは思わないけどさ…。前、年下の女の子にケンカで負けて、立ち上がれなくなるくらいに泣き崩れた事あるんだよ」
二つ目のポップコーンを口に入れながら、美紀は怪訝な顔をした。
「言い負かされたって事?」
「違う。ホントに殴り合いのケンカ。負け方もすごかったんだよ。だってさ、相手に馬乗りになられて、もうさ、タコ殴りにされたんだよ。『殺されちゃう』って思って私が止めに入ったんだけどさ」
「ええ……でもケンカに負けるのって、なんかちょっと違くない? 殴り合いのケンカしたことない女の人なんて、いっぱいいるし」
「悠はケンカ超強いよ。だってさ、男七人を一人で倒しちゃうんだから」
「えマジ? すげー…。そんな強いのに負けたの?」
「うん。だからさ、自信あったんだよケンカには。でも年下の女の子にボロ負けしてさ。そしたらもう、抜け殻みたいになっちゃって、なんにも出来なくなっちゃったんだよ。しかもさ…」
「…?」
「悠は自分じゃ誰にも言えないんだよ、そういう事。誰にも相談しない。自分の弱いところ、人に言えないんだよ。人に打ち明けるの怖いみたい。甘えるのも下手。自分じゃ解決できないくせにさ」
「あー…そうなんだ」
「あの後、悠もっと優しくなったと思うよきっと。私ずっと近くで見てるけどさ」
「ふーん…」
美紀は三つ目のポップコーンを口に入れると左斜め下を見つめて黙った。何か考え込んでいるような角度の視線だ。詩織も美紀のこんな姿を見た事はない。このまま考え込ませた方がいいのか、声をかけたらいいのか少し迷った後、詩織は美紀の持ってきたDVDを取り上げた。
「あ、これさ、前に一緒に観に行ったやつだよね?」
「うん」
ミュージカルのDVDだ。美紀が原作の漫画の大ファンで、誘われて詩織も一緒に観に行った。高校生になったばかりの頃だ。
この一枚は美紀の私物だが、他は借りてきたらしく、黒い布袋に入っている。詩織は開けて取り出した。
「『ものすごくうるさくて、ありえない……あ、これ先生が授業で紹介してたやつだよねきっと」
「うん。あたし気になってたから、いい機会だと思って」
「『名探偵ポワロ』これ、テレビシリーズのやつ?」
「そう。小さい頃見てたはずなんだけど全然覚えてないから、これも気になって」
ポップコーンの手が止まった。美紀は、詩織の持っているDVDのケースをただ見つめている。
「…じゃあさ、漫画は? 何持ってきたの?」
詩織が出ている漫画を手に取ると、美紀はさらにカバンから何冊か追加で取り出した。どれも見た事がない漫画だがこれは……おそらく同人。それも……。
「あのさ、これ……」
「うん。詩織が興味ないのは知ってる。悠さん、こういうの好き?」
「知らない」
「あそう。悠さん早く帰ってこないかな…」
美紀は四つ目のポップコーンを口に入れた。
しばらくして悠が帰ってくると、夕飯の下ごしらえが始まった。お米をといで、味噌汁の出汁を取る。豚肉をしょうゆ、みりん、酒、砂糖、すりおろした生姜、それに塩麹につける。生姜焼きだ。
「美紀ちゃん、高校生の時は今日みたいな地味な格好してたの?」
「いえ、高校生の時から服とかアクセとか髪も、色々やってました。昔からあんま変わってないともいます」
『と思います』が『ともいます』になった。少しずついつも通りの言葉に砕けてきている。
下ごしらえが終わると、悠はDVDを見る前にジャン坊の散歩に行こうと言いだし、動物好きの美紀も同意した。詩織が「ここで待ってる」と言うと悠が手を引っ張り「何言ってんの来な!」結局三人で行くことになった。
「あたし前から気んなっったんですよ。あいつ超デカイですよね」
美紀はリズムよくトントン階段を下りていく。『気になってた』が『気んなっった』に。言葉は前に戻った。でも、それとは別に一つ、前とは違う所がある。これは月曜日に授業で見た時から変わらない。
「ジャン坊って言うんだよ。デカイけど大人しいから大丈夫。水曜は私が散歩する日だからね」
悠がジャン坊の首にリードをつけた。散歩だと気付いたジャン坊はそわそわとしっぽを振っている。
「詩織も毎週散歩してんの? お前、犬超キライだったろ」
「我慢してるんだよ。初めは泣きそうなくらい怖かったよほんと。だってさ、リードつけるのに二十分くらいかかったもん。こんなになってさ」
腰を引ききって腕を伸ばしてリードをつける、だがジャン坊が少し動くと飛び退く…という当時の自分を詩織が再現してみせると、美紀は鼻で笑った。やっぱり前と違う。
三人で公園にやってきた。今日は空も晴れ渡って、気温は低いがそれでも気持ちいい。悠はジャン坊のリードを外した。本当はいけないのだが、平日は人がほとんどいないので内緒でやらせてもらっている。
「飛んでけぇっ!」
悠がボールを投げると、指示通りジャン坊は飛んで行った。美紀はなぜかそれを全力で追いかけていく。
「詩織、ほら」
美紀がジャン坊に夢中になっている隙に、詩織の手にお菓子の小箱が手渡された。買い物の前に悠に頼んでおいた、美紀が大好きなあのお餅だ。
「これでしょ? 言ってたの。詩織が渡してあげな」
「うん」
前までの美紀なら、犬を触った手でためらいなくお餅を触っただろう。今日はどうだろうか。
美紀が戻ってくるのを待っていると、美紀はジャン坊の隣でスマホを取り出した。電話がかかってきたらしい。少し通話した後電話を切り、ジャン坊の後を歩いて戻ってきた。
「いそべえ来るって。詩織、今日ん事教えた?」
「え、教えてないよ」
「なんか、護国連れてくっらしよ。あいつ、あたしに話あんだって」
『来るらしい』が『くっらし』。詩織はお餅の箱を手渡した。
「あのさ、はいこれ」
「お、くれんの? ありゃと」
美紀は受け取ると、すぐポケットにしまってしまった。
―― ダメか…。
「ねえ美紀ちゃん、護国君の話って何だか心当たりある?」
詩織は護国君に興味がなく、流してしまったが、悠は気になるようだ。護国君はあの一件を研究室で見ていた。それに、よく考えたら今日は平日。高校生の護国君が、そもそもなんで来られるのだろう。授業をサボって来るのだろうか。そうまでして美紀にしたい話とは何だろう。
「ぜんぜ分かんないです」
「たぶんさ、『あの作品感動しました。俺、美紀さん好きっす』とかだよきっと!」
詩織がそうふざけると、美紀は顔を持ち上げて「あっはは」と笑い上げた。
―― !
この前まで美紀はいつもこうだった。笑う時に決して下を向かない。「俊樹さんと三角関係になったらどうする?」と、追加で笑わせようとすると、いそべえから詩織に電話がかかってきた。
「もしもし?」
「あ、しー坊? 俺だけど、今からそっちに行くからね」
「うん。美紀から聞いた。どれくらいで着く?」
詩織は話しながら美紀と悠から離れた。
「すぐ着くよ。五分くらい」
「あのさ、護国君の話って何?」
「本人が言うから、それまで待ってて」
「あのさ…美紀さ、今すごく……落ち込んでるんだよ。だからさ…」
「あ、うん。分かってる。そこは大丈夫」
ジャン坊と遊んでいると、すぐに二人はやってきた。護国君はやはり学校をさぼったらしく、話を早く済ませようと、会うとすぐに話しだした。
「美紀さん、この前の日曜日、散々でしたよね」
護国君と美紀の様子を近くで見ながら、詩織は少し緊張していた。護国君は失礼な事をズバズバ平気で言ってしまう。多分悠もいそべえも、そして美紀も、同じく少し緊張しているだろう。
「俺、納得行かなかったんすよ」
―― 大丈夫かな…。
「何で美紀さんがあんなこと言われなきゃいけないのかなって」
美紀は何も言わずに立っている。
「美紀さん、変な人っすけど…あの作品見た時、そんな人でも色々考えて、悩んで、苦しんでるんだなって思って」
―― うーん…。気持ち失礼だけど、まあセーフかな。
「なのにあんな事言われて……まあ、先生の言ってた内容って概ね妥当ですし、きっと美紀さんもそれは分かってるんすよね?」
―― え…本当に大丈夫かな? どうしよう…。
「でも、俺はあの作品見て、ホントに心奪われたっていうか、感動したんです。だから美紀さん、俺…」
―― え…え? えぇえっ!?
「この大学入ります」
―― なあんだ。いや、まあそりゃそうだよね。
「彫刻研究室行きます。俺、ああいう作品作れるようになりたいです」
美紀はずっと黙ったままだが、片手だけ、ポケットに突っ込んだ。お餅が入っている方だ。
「ただ、やっぱり『あれ』に感動したっていうのは、大っぴらには言えないってのも、あるじゃないすか。来年入るとしたらますます、先輩とか先生とかの前で『あれ』に感動したとかは…」
美紀は黙ったままだ。
「なので、いそべえさん達も、俺が『あれ』に感動したって事は、絶対に人には言わないで下さい」
三人ともうなずいた。
「でも、俺は本当に感動したんです。だから、いそべえさんから美紀さん元気ないって聞いて…どうしてもそれ伝えたくなって、今日は来ました。時間ないんで、とりあえず今日はもう帰ります」
「あ、じゃあ俺送ってくよ」
「いえ、一人で大丈夫っす。もう道覚えてますから」
護国君はいそべえにそう言うとすぐ走っていってしまった。美紀は初めから終わりまで黙ったままだった。ただ、ずっと護国君をまっすぐ見ていた。今も走っていく護国君を見ている。
その美紀の後姿を見つめる詩織、悠、いそべえ。三人とも思う事は同じだった。
―― 一体何作ったの?
第二話 鏡 - 完
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