第四話 ちっぽけなこと

ちっぽけなこと 1/5



 岡本食堂で働いているのは、大将と悠、学生のバイト、それともう一人、学生ではないバイトの男の子がいる。


「阿部君、できたよー」

 悠が作ったまかないのお昼がテーブルに置かれた。お皿を見つめるのは、学生ではないただ一人のバイト、阿部あべ忠彦ただひこ君だ。


「…す」


 阿部君は声も小さいし、動きも小さい。彼をよく知らない人は、今のが「ありがとうございます」という挨拶とお辞儀だとは気付かないだろう。


「はい、真田さん」

「ありがとうございます」

 阿部君の隣に座るあり姐もお皿を受け取った。悠も自分のお皿を持って席に着き、三人でのお昼がスタートした。


 大将はお昼になると一度家に帰って、奥さんの手料理を食べている。お昼はいつも悠と阿部君、ときどきあり姐だ。


「ああ、美味しい。私、玉子ほんっと大好きなんです。それも甘いのが」

「鶏そぼろと一緒に食べるなら甘いのがいいよね」

 今日のメニューは三色丼。茶色い鶏そぼろと、黄色い玉子そぼろ、それに緑のほうれん草だ。


「真田さんは好き嫌い全然ないよね」

「ええ。食べられます。大体なんでも」


「いいよねー。ご飯作る方としてはありがたいよ。よく私のうちに来る誰かさんは、メッチャ好き嫌い多くて、好き放題残すからね」

「垣沼さんですよね? 悠さん、彼女の第二の彼氏になってません?」

「違うよ! 私が第一の彼氏で、いそべえが第二の彼氏だから」

 笑うあり姐の隣で、阿部君は黙ってスプーンでご飯をすくっている。あり姐が阿部君を「ねえ」と言いながらつついた。

「阿部君は好き嫌いある?」


「……」

 阿部君はスプーンを止めた。だが、黙ったままだ。

「阿部君、キノコ系嫌いでしょ。いつも最初にまとめて一気に食べてるよね」

「は…」

 悠の助け舟に阿部君は「はい」と返事をした。あり姐は隣で優しく笑っている。少し前までの彼女なら、阿部君の態度にイライラしていただろう。


 阿部君は今までそうやって、まわりの人にイライラされ、うまく人間関係を築けずに、バイト先を転々としてきたらしい。岡本食堂にやって来てからもうすぐ一年。彼がやったバイトの中では一番長く続いているそうだ。


 あり姐が口元を手のひらで隠しながら、また阿部君をつついた。

「阿部君、七味取って。私丼物には基本七味かけるの。あと、悠さんのコップにお水ついであげて」

 阿部君は黙って七味をあり姐に渡し、悠が差し出したコップに水を注いだ。

「ありがとね。ねえ真田さん、詩織達どんな感じなの?」

「ギターですか? ほんっとに進歩ないです」

「やっぱり……」

 悠はそう言いながら「ふふ」と笑った。


 最近あり姐は、公民館の部屋を使ってギター教室を始めた。とは言っても、生徒は詩織を含め二人だけだ。あり姐自身も趣味で弾いているだけだし、誰かに教えた経験もない。誰かがうまくなろうとなるまいと、ただ安心できる誰かと一緒に何かやっていることが、今のあり姐にとっては幸せなのだ。


「バックさんは?」

「垣沼さん以上に進歩ないです。垣沼さんは自分なりに一生懸命練習するんですけど、バックさんはもう、弾けないことすら面白がってるって感じで」

 もう一人の生徒はバック。本名 多田ただ信貴のぶたか。美術の院生だ。背が高くて筋肉多めの色黒、黒髪に太い低い、渋い声。と、表面的には宮本武蔵っぽい雰囲気なのだが、性格には剣豪らしさなど皆無。


「あの人、ほんっと適当なんで。曲のコード忘れたって言うから私が教えると『おお! 確かに聞いた事ある!』とか言って。まあ、楽しそうなんで、別にいいですけど」

 あり姐の言う通り、『適当』という言葉がこれほどまでピッタリはまる人間もそういないだろう。彼も最近岡本食堂にちょくちょく来てくれる。「俺、通う店はメニュー全制覇することにしてるから」とか言っていたのだが、今のところ、毎回ヒレカツ定食を食べて帰っていく。


「あの人、音楽の趣味もコロコロ変わるんです。教室始めた頃はボサ・ノヴァはまってて『ジョアン・ジルベルトになりたい』とか言ってたんですけど、そのうち『フランク・ザッパ最強』になって、次に『ジョー・パス天才』で『ポール・ギルバートやばすぎ』最近は『結局アンドレス・セゴビア!』とか。とにかくもう好みの変遷がぐちゃぐちゃ。ほんっとカオスで」

 ギター教室にしろ、ここ岡本食堂にしろ、あり姐がこうやって家から出てこられるのは、その場所に安心できる人がいるからだ。大学は美術専攻の学生と会うのがどうしても怖いらしく、もう全く行っていない。来年から休学して、体調を整えてから大学に戻るつもりらしい。



 三人が食べ終わろうとした頃、食堂の扉がガラリと開いた。

「お疲れでーす」

 そう言いながらテーブルに鞄をドカリと置いたのは、バイトの学生の一人、まゆずみ創平そうへい君だ。


「あ、黛君! そこに鞄のせないで」

 悠が鞄をおろすよう手で合図すると、黛君はスマホをのぞき込みながら言った。

「大丈夫です。後で拭いときます」


 彼は頭もいいし、仕事も早くてミスもない。遅刻もしない。そのへん、バイトとしては文句のつけようがないのだが、こうやって悠に何か注意されても一向に意に介さない。超有名私大の経済学部に通っているエリートで、大学のキャンパスは横浜の方にあるらしいのだが、自宅がこの近辺にあり、ここでバイトをしている。


「大将さんまだですか?」

 黛君はずっとスマホを眺めたままだ。

「まだだよ。黛君ほら。これで拭いときな」

 悠が布巾を黛君のそばにポンと置くと、黛君は手のひらをパッと挙げて合図をした。阿部君と違い、「は…」すら言っていない。


「悠さん、これ私片づけるんで」

 あり姐がそう言ってテーブルの上を片づけ始めた。悠は普段であれば「いいよいいよ」とあり姐を止めて自分が片づけをするのだが、今日は止めない。あり姐は食べ終わった食器を持って流しの方へと入っていった。


「あの人また来てんですか」

 黛君が鼻で笑いながらそう言った。あり姐はここのバイトではないし、ここに来る理由も誰にも教えていない。黛君からしたら不可思議な存在ではあるだろう。

 だが黛君は、あり姐がここに来る理由をなんとなく想像しているらしく、少し馬鹿にしている。


「うん。お昼だけだから、仕事の邪魔にはならないし」

「邪魔とかの前に、すればいいじゃないですか。仕事」

「彼女には彼女の事情があるの」

「へえ……まあ、何でもそう言えばオッケーになりますけどね」


 少し離れた流しで食器を洗っているあり姐に黛君の言葉が聞こえているかどうか、悠には分からない。黛君にも分からないはずだ。つまり、聞こえているかもしれない。

 あり姐は三百円を悠に渡して、公民館へと向かって行った。ちょうど今日これから、例のギター教室だ。



                *



 詩織は美紀、いそべえ、宮ちゃんとともに、Rのケヤキの下でお昼を食べていた。と言っても、他の三人は食べ終わり、食べているのは詩織だけだ。


「しー坊もあり姐のギター教室に行ってるんでしょ? 今何弾いてるの?」

 宮ちゃんがそう聞くと詩織は目を合わせずに答えた。

「コマンドマスターの曲練習してる。でもさ、全然弾けるようにならないんだよ。コード覚えられないんだよね」

 言い終わるとおにぎりを大口あけてかじる。四個買ってきたがこれで最後だ。今日初めて買ったこの新商品『沖縄豚味噌』は最後にとっておいた。


「詩織、今そこにギターあんだから、聴かしてよ」

 美紀が詩織の足元に置いてあるギターを指さしながらそう言うと、詩織は脊髄反射のように首を横に振った。

「でもしー坊、誰かに聴いてもらう機会がないとダメだよ。その方が絶対うまくなるって。目標になるからね。今月中に、最低でも一曲は弾けるように…」

うぶふぁいまうるさいな


 そう言いながら、詩織は横目でいそべえを睨み付けた。いそべえが当たり前みたいに押し付けてくる微妙な厳しさ、ストイックさに詩織がイラッとするのは、よくある構図だ。美紀がパン、と自分の膝を手のひらでたたいた。

「よし。じゃあり姐に頼むか。発表会やれって。したら詩織も弾かざる得ないかんね」

「えー」

「豚味噌食いながらブーブー言うなって。別に下手だって楽しく弾きゃいだろ。友達だけなんから」

 美紀にそう言われて詩織は本気で嫌そうな顔、いそべえは得意のニヤニヤ顔だ。




「ねえしー坊、ギター教室で、あり姐どんな感じ?」

 詩織がギター教室に向かおうと自転車に乗ると、宮ちゃんがそう聞いた。宮ちゃんは詩織に会うといつもそれを聞く。あり姐が楽しい時間を過ごせるようにギター教室をやることを提案したのは宮ちゃんだ。


「相変わらずだよ。私もバックさんも出来が悪くて、たまにイライラしてるけどさ」

「そう。まあ、相変わらずならよかったよ」

 いそべえも「ねえ」と会話に入る。

「しー坊、頑張って上手くなってね。きっとあり姐も喜ぶから」

 詩織は、上手くなれとか言われるの嫌なの! という気持ちを込めて、ゆっくり言った。

「うるさいな」


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