言えないことは… 6/12 ~あっかんべえ~

 今日こそはビリにはなりたくない。なんていう風にはとっくに、というか初めから思っていない例の授業。どうせ今日もビリに決まっている。詩織はそんな思いでまた電卓をはじいていた。

 きっと今日もまた、いよかんが脇を通り抜けていくだろう。その時もし何か言葉をかけられたらどうしよう。固まらずに笑顔を返してあげないと。

 ところが、初めに詩織の脇を通って行ったのは、いよかんではなかった。やはり女の子だが知らない子だ。

「はい。あなたもいつも早いよね。一番は初めてだっけ? ええと、はいよし正解。お疲れ様でした」

 先生が解答を受け取ると、「初めて一番の女の子」は「ありがとうございました」と言ってから、教室を出ていった。

 いよかんは来ていないんだろうか? そう思っていると、コツコツと足音を立てながら、いよかんが速足で詩織の脇を通り過ぎた。


―― あれ? いよかんって、いつもヒール履いてたっけ? …分かんないや。まあ、それはどうでもいいか。


「はい。やっぱり早いですね。はい正解。お疲れ様でした」

 いつもの通り一発正解。詩織は誰にも聴こえないように鼻でため息をついた。


―― 相変わらず優秀で、今私が顔をあげたら素敵な表情で手とか振ってくれるんだろうな。絶対顔はあげ…


ドガチャン!


 と教室の壁が吹き飛びそうな大きな音が鳴った。詩織がびっくりして顔をあげると、教室の引き戸がぐらりと揺れている。重いあの扉を誰かが乱暴に閉めたらしい。いよかんの姿はない。いつもは池谷君達を待っているのに、今日は急いでいたんだろうか。それとも、ひょっとしたら何かトラブルでもあったんだろうか。



 今回は何とか授業内に提出できた。いつも通りビリではあったが、時間内に出せて気分がいい。

 詩織は教室でいよかん抜きでおしゃべりしている池谷君達の所に行ってみた。

「あ、しー坊さん。お疲れです」

「お疲れ様。あのさ、いよかんはどうしたの?」

 池谷君の隣の女の子が苦笑いを浮かべ、言いづらそうに言った。

「今日あの子、一番の座を明け渡したじゃないですか。それでです」

「え? それで悔しくて…先に行っちゃったの?」

「そうなんですよ。あいつ、一番になれなかったり、何かやっても褒められなかったりすると、超不機嫌になっちゃうんですよ」

「普段は優しい子なんですけど…」

 詩織の頭でいよかんの足音がもう一度鳴った。あれは怒っていたからだったらしい。

「でもあいつ、そういうとこホントしょうがねーよな。何怒ってんだよって感じしない? 一番になれない俺達をどう思ってるんだよって」

「確かに私も、あれにはイラッと来る事ある。正直ね」

「だよなやっぱり。垣沼さんみたいにいつもビリでも超頑張ってる人だっているのにさあ」

 池谷君の軽い茶化しを詩織は聞き逃してしまった。ちょっといよかんの事が気になったのだ。

「自分でも心の中では悪いなって思ってるかもよきっと」

 詩織がそう言うと二人はまた苦笑いした。

「え…どうだろ…」

「あいつのあの態度は……なあ」



                  *



 次の土曜の午前中、詩織はまた絵画研究室で投げキッスしていた。今日は視線の先には裸の女の人のではなく、石膏像がある。女の人で、ほぼ裸だけど。

 詩織は出来るだけ心を無にしようとしていた。余計な事を考えたくない。またイライラするのは自分だって嫌だからだ。それに、この前の授業のいよかんみたいに、他の人に陰口を叩かれたくもない。

 でもよく考えたら、自分はいそべえの陰口を悠や近藤君にふりまいていたし、悠の前では「きもい」とまで言ってしまった。私、最悪だ! そんな風にまた自己嫌悪の時間がやってきてしまい、結局詩織の頭の中はずっと大嵐だった。


―― 嫌だな…。……嫌! 大っ嫌い!!


 昼休みはハンバーグ弁当。やはり、いよかんのおごり。今回は弁当のほかにコンビニのサラダやお総菜がいくつもある。

 詩織はかなりの勢いで食べ物を口に詰め込んでいた。嫌な気分を大好きな食事で吹き飛ばしたい。隣ではまた、いよかんといそべえが絵の話をしている。詩織の食べ方の勢いの意味する所をいそべえは気付いていないというか、そもそも詩織には全く意識を向けていない。食事は美味しいが美味しくない。

 詩織はさっさと食べると、一旦研究室の外に出た。研究室から出ても、別に行くところはない。休み時間が終わるまで、そのあたりを適当にうろうろするだけだ。

 ここ美術棟の廊下の壁や棚の上には、学生の作品がいくつも展示してある。詩織はとりあえず壁にある絵を見て回る事にした。


 一枚目の絵。タイトル「アヴぁンギャルド」モノクロの画面の中に、何重にも重ねて書かれた線で、女の人が浮かび上がって来ている。


―― ふーん…。なんで「ぁ」だけ平仮名なんだろ? この女の人、長いくるくるパーマだ。金髪かな? お人形さんみたいでかわいい。私も髪伸ばそうかな…。次。


 二枚目の絵。タイトル「N.OHENO」夕日の沈む海に向かって、古風な服を着た男の人が、崖の上でたそがれている。


―― エヌ、オーエノ? あ、中大兄皇子? へえ。二時間サスペンスで自白してるみたい。次。


 三枚目の絵。タイトル「サブリミナル効果」赤、青、緑、紫、様々な色で何人もの顔が描かれているようなのだが、黒い背景の上で顔が折り重なって、どんな顔か全然わからない。


―― 何これ? 次。


 四枚目の絵。タイトル「波浮港の海に潜む普遍的にして支配的な温度差」完全な抽象画で、なんだかモヤモヤしたものと、ブツブツしたものと、シュシュシュッっとしたものが

「こらああああっ!!」

「うわぁあああっ!!」

 後ろからいきなり怒鳴られて詩織は飛び退いた。その拍子に足を引っ掛け、壁に立てかけてあったイラストレーションボードを何枚も倒してしまった。美紀と一緒に黙々と元に戻すと、詩織は美紀に向きなおった。

「やめてよ!」

 美紀はただ楽しそうにケタケタ笑っている。

「詩織、こんなとっで何してんの?」

「いよかんに頼まれて、絵のモデルやってる」

 詩織がそう言うと、笑っていた美紀の眉間にしわが寄った。

「えマジで? なん……詩織いよかんと知り合いだっけ? ひょっとして、いそべえに会わされた?」

「うん」

「マジか……」

 美紀の顔はますます厳しくなった。

「何か気になるの?」

「え…あー、や別に。ねえ詩織、夜ヒマ? ご飯食い行こよ」


 美紀と約束して詩織が研究室に戻ると、さっきの楽しいお喋りの空気が一変していた。なんと、いよかんがぽろぽろと泣いている。どうしたのだろう。隣には話を聞いているいそべえ。いそべえは、すぐに詩織に気付いた。

「あ、しー坊お帰り。もう少し休んでから始めよう」

 詩織はうなずいたが、固まった。何だか近寄りづらい雰囲気だ。詩織が固まっていると、研究室の扉が開き、中から男子学生が出てきた。

「お疲れー。ん? え、いよかん泣いてんのか?! どうした! いそべえに泣かされたか?!」

 この人は相変わらず必要以上に声がでかい。いそべえも負けじと大きめの声(対して大きくない)で言い返した。

「違いますよ! 授業で」

 いそべえの視線が一瞬だけ詩織に向いた。

「何か嫌な事あったみたいで…」

 明らかに詩織を意識して話をぼかしている。

「俺に話してみ! 大学に何年いると思ってんだよ!」

 やはり声がでかい。

「いえ、もう大丈夫です。いそべえさんが聞いてくれたんで。バックさん、ありがとうございます」

 いよかんはそう言うと、すぐに制作室に入っていった。



 出来上がった絵は素晴らしかった。先週見た時と違うのは水筒を抱いている事だけだが、それだけで投げキッスの雰囲気が変わった。絵が温かい雰囲気に包まれている。

「ふう…」

 いよかんが絵を前にして深く息を吸って吐いた。声にも顔にも充実感を滲ませている。いそべえも絵にいつものニヤニヤ顔を向けている。

「いいなあ。この絵、俺はすごく好きだな。この子可愛いよね」

 詩織に同意を求めてきた。確かに絵の女の子は詩織にも可愛い。

「うん。可愛いと思うよすごく」

 本物の私なんかよりね。と心の中で詩織はつぶやいた。顔立ちは自分を元に少し整えてあって、表情はいよかん。それを可愛いと言われると複雑な気持ち……っていうか普通に気に入らない!

「あと、タイトルなんですけど、初めはシンプルに『投げキッス』にすればいいかなって思ってたんです。でも、何かもっとこう…この絵にはこのタイトルじゃなきゃダメって感じにしたくて。いそべえさん、何か思いつきませんか?」

 いそべえは顎に手を当てると、眉間にしわを寄せて絵を眺めながら「うーん」とうなった。

「タイトル何にしようっていう視点より、いよかんが何でこの絵に特別なタイトルをつけたいと思ったのか、その動機を探ったほうが……この絵の『名前』が見えてくるんじゃないかと思うけど」

「ああ…! そっか」

 うれしそうに笑顔をはじけさせるいよかんと、真剣に絵を眺めるいそべえ。楽しそうですね。学生生活色々充実してる感じ。

 詩織はいよかんといそべえを残して、何も言わずにそそくさと研究室を出ると、階段を一階まで下りた。彫刻研究室は一階だから、そのへんに美紀がいるはずだ。

「しー坊!」

 すぐにいそべえが追いかけてきた。

「ちょっと、何にも言わずにいなくならないでよ。いよかんがお礼言ってたよ。来週の水曜から都立版画美術館で展示されるから、見に来てくださいって。バックさんの絵も展示されるってよ」

「ふーん」

「一緒に見に行こうよ。…あ、バックさんって分かる? あの声大きい人」

「へーそう」

「あの人合唱やっててね、バッハが好きなんだよね。それでバッハをドイツ読みっぽくしてバックさんって呼ばれてるんだよ」

「ふーん」

「? …ねえ、しー坊何でそんなに…」

「ごめん、今日美紀と約束あるから」

 詩織はさっさと歩きだした。その瞬間、後ろの方から

「いそべえさーん! すいません、あとちょっとだけ!」

 いよかんの声だ。詩織は速度を落とした。この後どうなるだろう? 歩みはゆっくり止まり、鼓動は激しくなった。今振り返って、いそべえはいるだろうか? 階段を登っていってしまっただろうか。振り返ろうか? どうしよう…。

「お、詩織!」

 詩織の正面から美紀が現れた。タイミングいいのか悪いのか…。

「終わったんしょ? じゃ飯行っか。…ん?」

 美紀が詩織の後ろの方に目をやった。詩織が反射的に振り返ると

「おい、そこんお前! どうせ暇だろ。一緒ん飯来い。先輩がおごってやっから!」

「え、マジですか! 行きます!」

 池谷君だ。その後ろでは、誰もいない階段が詩織にあっかんべえをしていた。

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