言えないことは… 8/12 ~最高のタイトル~

 都立版画美術館はここら辺りでは一番大きな美術館だ。木々が生い茂る公園に併設されていて、美術館に用がない人も大勢やってくる。

 他大学との合同展覧会が始まる今日、悠は朝から公園をフラフラしながら美術館の入り口を見張っていた。詩織といそべえが来るんじゃないかと思っていたのだ。二人がケンカしていないかが気にかかっていたので、岡本食堂が定休日である今日、二人の様子を見るためにここまでやってきた。

 入口に誰もいない事を確認して、一旦公園を歩く。ここは広くて一回りすると二十分程かかる。二人が待ち合わせするとしたら「何時」か「何時半」だろうと予想して、見逃さないように定期的に様子を見にいく。


―― あ!


 悠が入口に戻ってみると、いそべえと詩織の姿が見えた。悠は偶然を装って二人に近付いていった。

「黒川君!」

「あ、悠さん。おはようございます」

 いそべえの返事と同時に振り返った女の子は、詩織ではなかった。

「…こんにちは」

「こんにちは…あ、ひょっとして『いよかん』ちゃん?」


―― マジか! 見たことない服だなとは思ったけど、後姿ここまで似てるとは…。


「あ、はい。そうです。えっと…いそべえさん、この方…」

「しー坊と仲良しの木村悠さん。岡本食堂って言う定食屋で働いてる人だよ」

 いそべえに紹介してもらって、いよかんと悠は会釈を交わした。

「はじめまして。ねえ黒川君、詩織は?」

そう。詩織の姿はどこにも見えない。

「今日は初日だから一緒に見ようって言ってたんですけど、なんか用事あるみたいですね」

 悠にはピンときた。何かしらの理由で陰鬱になっている詩織が、嘘をついて逃げたのだ。そして、いそべえは嘘も陰鬱になっている理由も、何も気付いていない。もう少し状況を探ってみよう。

「そうなんだ。いよかんちゃんと三人で見る約束だったの?」

「いえ、私は偶然ここにいたんです。朝の会場の準備が終わって、ロビーで一息ついてたら、いそべえさんがいらしたのが見えたので、挨拶しなきゃって」

「そういう事か。ねえ、詩織がモデルやった絵なんでしょ? 私も見たいな」

 三人で展覧会を見て回る。展示してある絵は、基本的に悠にはあまりよく分からない。悠は絵よりもいそべえといよかんの様子をうかがっていた。

 いそべえは普通に絵を見て回っているが、いよかんがやたらと話しかける。いそべえはそれに笑顔で応じて、おしゃべりが始まる。悠はさりげなく耳を澄ませた。


―― さては、詩織がモデルやってる間もこんな感じだったんだな?


「これバックさんの絵でしょ?」

「はい。そうです。あの、いそべえさん、実はこれ…」

 なんだかヒソヒソ話し始めた。展覧会だから元々小声で話していたのだが、遅れて絵を見ている悠には内容が聞こえない。

「えっそうなの?! それは……あの、すいません悠さん」

 いよかんの話を聞いていそべえが悠を呼んだ。

「何?」

「あの、これ美術専攻の院生が描いたんですけど…」

 悠は絵を眺めた。縦長の大きな油絵で、中央で裸の女の人が首の後ろに手を回し、長めの髪を持ち上げている。そのまわりには巨大な花が咲き誇り、奥には滝が落ちている。タイトルは「一日の最後の仕事」

「へえ…綺麗な絵だね」

「悠さん、実はこの絵…………」


―― !!


 いそべえは悠に、この絵のとんでもない秘密を耳打ちしてきた。大声をあげそうになるのをこらえてむせ込み、悠は絵から距離をとった。

「ま、マジで?! その人…馬鹿じゃないの?!」

「いやあ、私も人づてに聞いた時ドン引きしました…」

 いよかんも口にグーを当てて笑っている。ドン引きするのは当然。こんな秘密、とても口には出せないし、字にも書けない。

「マジで最悪…。この絵、今、引き裂いていい?」

「私も正直、引き裂きたいです」

 悠はもう一度まじまじと絵を眺めた。

「マジで…マジで最悪。黒川君、わざわざ教えなくていいよ!」

「すいません…教えておいた方がいいのかなって思っちゃって…」

 三人はやっと、いよかんの絵の所にやってきた。出口近くの角のあたりに一枚だけどかんと飾ってある。

 悠は初めて見たその絵に息を呑んだ。聞いた通り見事な絵だ。女の子は確かに詩織に似ている。顔立ちは少し整えてあるが。

「可愛いですよねこの女の子」

 いそべえはいつものニヤニヤ顔で絵の女の子を眺めている。

「うん。確かに可愛いね」

 悠といそべえの後ろから、いよかんが恥ずかしそうに言った。

「なんか、さっきの絵を描いた院生さんに言わせると、顔立ちは垣沼さんで、表情は私らしいです」

「表情いいよね。可愛いよ。悠さん、どうです?」

 確かに可愛い。

「そうだね…いいと思うよ」

「あの、いそべえさん悠さん、タイトルの印象…どうですか?」

 二人は絵の下に置いてあるタイトルのパネルに目を向けた。


 --- ごめんねとありがとう、それに、大好きだよ、のしるし ---


「ああ、いいタイトルだね。俺のアドバイス、助けになった?」

「はい! いつも優しくしてあげられないけど、ちゃんと想ってるよ、みたいな。私、いそべえさんの前で泣いちゃったじゃないですか。アドバイス聞いた時、それを思い出してスルっとこのタイトルが浮かびました」

 いよかんは嬉しそうに笑っている。悠は確信した。詩織が陰鬱になってるのは、二人のこんな雰囲気を見たからだ。

「私ちょっと先に出てるね」

「あ、はい」返事をするいそべえに振り返らずに、悠はすぐに美術館の外まで出ると、詩織に電話をかけた。


―― 出ろよ出ろよ…。


「はいもしもし。何?」


―― 出た!


「詩織、私今版画美術館にいるんだけど」

「えっ…」

「見たよあの絵。詩織にそっくり。顔立ちも表情も」

「えー、そう?」

「うん。今からでもいいから見に来なよ。私、待っててあげるから」

「いい。私モデルやった時もう見たもん」

「美術館で見るとまた違うと思うよ? タイトルも知らないんでしょ?」

「いい」

 かたくなだ。二人で見にきた時に絵を見ながら話をしてやろうと思ったのだが、仕方ない。

「ねえ、今家にいるでしょ?」

「うん」

「私の家にお昼食べにおいで」

「うん。行く」


―― よかった!


「今から買い物して帰るから。何食べたい?」

「うーん…すき焼き!」


―― 真っ昼間から? …まかしときな!


 いそべえに「もう帰るね」と連絡を入れ、悠はすぐに出発した。



                  *



「そろそろいいかな。ほら詩織、取りな取りな!」

 詩織はカセットコンロの上のフライパンからほぼ肉のみごっそり皿に取った。その皿をテーブルに置く前に、顔のそばに持っていくと、詩織は深く鼻から匂いを吸い込んだ。

「あー、いいにおーい」

 満面の笑みだ。

「ねえ、本当は黒川君と一緒に行くはずだったんでしょ? 展覧会」

 自分の分を取りながら悠は遠慮なくたずねた。下手に先に延ばすと聞くタイミングを見失いそうだ。詩織も聞かれる事を覚悟していたらしく、すぐに「うん」と返事をした。

「どうして行かなかったの?」

 詩織は口いっぱいに詰め込んだ肉を噛んで飲み込み、軽く息を吸った。

「だってさ…あの子、私より可愛くてさ…」

「絵の女の子ね?」

「うん。顔はさ、私に似ててさ、でもちょっと美人でさ。表情はいよかんって言われたんだよ。あの表情、可愛いよね」

「うん。いよかんちゃんの事はよく知らないけど、詩織に似てたよ」

 詩織は悠に疑念の目を向けている。

「自分より可愛い、絵の女の子を黒川君がチヤホヤするから、嫌だったんだ。それもいよかんちゃんと二人で」

「……」

「そうでしょ?」

 悠が笑いかけると詩織はうなずいた。

「黒川君、ちょっと鈍感だよね。それは私も思うよ。詩織の様子に気付いてなさそうだもん」

「そうなんだよねえ。鈍感! にぶちんだよ。でさ、すけべえ! もうさ、啓ちゃんに頼んでさ、ブッ飛ばしてもらおうかな!」

「こらっ!」

 卵を追加で一個小皿に落とし、もう一度具を取る。詩織はすき焼きの肉を全部持っていってしまった。そしてそれを無理やり口に押し込んでいる。

「いはもは、いふぉえ、わふぁいおわえれ、いおがんおふぁ…」

「飲み込んでから喋りな」

 悠は、今回の一件に関する詩織の愚痴をひたすら聞き、すき焼きをたらふく食わせてやった。



「ねえ詩織、誕生日もうすぐだよね。どっか行くの?」

 二人は満腹状態でそれぞれゴロゴロしている。

「んー、別に。予定ない」

 悠の方は起き上がった。

「なんにも予定ないの? 本当になんにも?」

「ない」

 お祝いしてくれない誰かさんを責めるような口ぶりだ。

「分かった。私がケーキ作ってあげるよ」

「えホントに?」

「うん。水曜で私もお休みだから、もし最終的に本当に何にもなかったら、映画かなんか見に行こう」

「やった」

 詩織は寝っ転がったまま、両手のグーを高く挙げた。

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