言えないことは… 2/12 ~いそべえ、絵に惚れ込む~
次の日、授業終了後にいそべえは彫刻の研究室に来ていた。
「ねえ美紀。しー坊なんだけど…」
美紀は粘土をいじりながら背中でいそべえに「ん?」と返事をした。
「何でああなんだろうね」
「ああってなんよ?」
「なんか…だから、たまに子供みたいなんだよね」
「知ってるよ」
「『知ってる』って…」
美紀が勢いよく振り返った。
「お前わざわざそんな話しん来たわけ?」
言葉に詰まるいそべえを残して、美紀はすぐに自分の作品に向き直った。
「やっぱねちねちしてんなお前。あいつが子供みたいなんてとっくにわあってんじゃん」
「…でも」
「グチなら別ん奴ん聞いてもらってくんない? あたしは集中したいんだよ!」
「んー」と唸った後、いそべえはまた口を開いた。
「同じ女の子の意見が聞きたいって言うか…」
「じゃ悠さんに聞いてもらえよ!」
「いや、悠さんは仕事が…」
「いけたにー!!」
美紀の大声を聴いて、彫刻研究室に遊びにきていた池谷君が奥からやってきた。
池谷君は普段グラフィック・インフォメーションデザイン研究室にいるのだが、最近は彫刻研究室にいる真田さん(通称あり姐)を狙っていて、用もなく彫刻の研究室に来る。その時その時気になる女の子がいる研究室に出没する彼は、美術専攻の学生達に「渡り鳥」と影で呼ばれていた。
「池谷、いそべえんグチ聞いてやって。お前どうせ暇だろ」
「え、まあ暇ですけど。いそべえさんのグチって何ですか?」
「お前さ、詩織分かる? 垣沼詩織」
池谷君は斜め上に視線を逸らせた。
「ま分かんくてもいいや。いそべえ! こいつんグチ聞いてもらえ。そん方がいいよ。あたしより乙女心分かってんもん」
「女の子の事ですか? じゃあいそべえさん、俺と二人でいよかんのとこに行きましょうよ。あいつ聞き上手な乙女ですから。多分、研究室にいると思いますよ」
『いよかん』と言うのは美術専攻の後輩、一年の女の子のあだ名だ。洋画研究室で絵を描いている。少し前の大学祭では、美術専攻の「美術科展」をいそべえと一緒に引っ張った中心メンバーの一人だ。声やしゃべり方だけでなく、全体的に雰囲気がどことなく詩織と似ていて、話を聞いたら参考になるかもしれない。
ちなみに池谷君は、付き合っているわけではないが彼女を「キープ」している。彼女の方は池谷君の相手はするものの、今のところ彼になびく気配はない。
さらにちなみに、池谷君に「キープ」されているのは、いよかん一人だけではない。
「え、いよかんに話すんの?」
すぐにそう難色を示したのは美紀だった。理由に心当たりがないいそべえが「?」という表情を作ると、美紀はすぐにいそべえと池谷君を手で掃った。
「まいよ。行きな。ほら行け」
洋画研究室では予想通り、いよかんが絵を描いていた。詩織に似た雰囲気のガーリーな淡い色のシャツに、大きめのエプロンをしてキャンバスに向かっている。
「いよかーん」
池谷君の声でいよかんは振り返り、二人に気付いて笑顔でお辞儀を返した。
「うわ凄い…これ油?」
いよかんが描いている大きなキャンバスには、油絵の具が厚塗りされている。いそべえに感心され、いよかんはにかんだ。
「はい。この絵、初めは突然頭の中に浮かんだ景色なんです」
絵の中にはキャンパス内の建物や、付近の街並みがぼわりぼわりと雲のように浮かび、中央には女の子が、椅子というより段差のようなところに腰かけている。浮かぶ建物や景色も、一目で惹きつけられる力強い描き込みがされていて、見事な絵だ。ただ…
「これ誰? いよかん?」
池谷君が絵の中央の女の子の顔を指さした。もう少しで触りそうなほど指を近づけている。
「違う。あのね…最初はロングヘアの女の子が浮かんでたんだけど、描いてみたら激しく違和感あって、描き直してる最中」
女の子は明らかに、一度描かれた後で上から描き潰されている。今はシルエットから女の子と分かる以外は何も描かれず、まるで幽霊みたいだ。
いそべえはその幽霊みたいなシルエットに不思議と心を奪われた。なんだか自分を呼んでいる気がする。
「ロングヘアはやめたの?」
「はい。描いてて…違うなって。髪は短い方がいいなって思ったんですけど、まだはっきり見えないって言うか…」
いそべえはシルエットから目が離せなくなった。何か見えるわけではない。でも、もう少しで何か見えてきそうだ。
見入っているいそべえを見て、いよかんは絵の説明に熱を入れた。
「あの、初めは何となく『女の子』としか考えてなかったんですけど、描いてる途中で一度、『私自身かも』って思って、描き直したんです。だから、その時点で髪の毛は短くなったんですけど、まだなんか違って…。自分じゃないなって。どんな子かは想像ついてるんです。周りに浮かんでる場所に、大切に育ててもらった女の子で…」
「育ててくれてありがとう的な?」
久しぶりに言葉を発した池谷君に、いよかんはパシリとこう言った。
「いや、そんな単純なものじゃない」
「いよかんは、もっとナイーブな絵を描くよね」
いそべえがそう言うと、いよかんは嬉しそうにうなずいた。
「先生にも言われるんですよね。この子は、小さい頃から周りに愛されて大切にされて、でもそれに気付かず、ずっと迷惑かけてきて…で、大きくなってもう、それに気付いてるんですけど、でもこう何か……上手いことやれない、みたいな」
「へえ…」
相槌を打ったのは池谷君だ。いそべえはずっとシルエットを眺めている。女の子のシルエットは、腰かけていること以外何も分からない。だがいそべえには、なぜか、ふわりとポーズが見えてきた。
「投げキッスしてる気がする」
いよかんが静かに小さく口を開き、シルエットを見つめた。
「あ、なるほど…そういう事か…」
池谷君が笑いを投げつけた。
「やっぱり育ててくれてありがとうみたいな感じじゃん!」
「違う」
「って言うかさ、いそべえさんが、いよかんに話聞いてほしいって事で、俺が連れてきたんだよ。話聞いてあげて」
池谷君にそう言われ、いよかんは「え!」といそべえに向き直った。
「そういう事だったんですか? ごめんなさい自分の絵の話ばっかりして。私でよければ何でも聞きますよ」
「あー…ごめん、やっぱりもういいや」
「え?」
「それより、この絵完成したら教えてね」
この絵を見て、モヤモヤした気持ちは吹っ飛んでしまった。詩織の事は別に二人に話す必要はない。そんな事より、いそべえはいよかんの絵が気になった。
いよかんは「必ず報告します」と右手でグーサインを決めると、キャンバスに向き直った。幽霊のようなシルエットから、投げキッスをする女の子を大胆に描きだしていく。
いよかんと、タイミングを計って彼女に話しかけ続ける池谷君二人を残して、いそべえは帰る事にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます