鏡 4/6 ~しょんぼり美紀~
日曜日の朝、詩織は大学の正門で悠といそべえ、ついでに護国君が来るのを待っていた。美紀の作品はどんなだろう。美紀を映す鏡…
美紀は小学生の頃から、クラスの子や先生から変わり者扱いされていた。授業中にチョロチョロ歩き回るし、いきなり笑い出すし、そうかと思えば、なぜかその笑いが徐々に大泣きに変わったり。掃除をしている時一人になった隙に、ほうきの柄で天井の蛍光灯を突いて割ってみたり、廊下に落ちていたビー玉をいきなり口に放り込んでみたり、教室の水槽に手を突っ込んで、メダカを捕まえようとひっかきまわしてみたり。
中学、高校と上がるにつれ、ぶっ飛び行動は常識を踏まえるように(あくまで相対的に)なっていったが、大学生に至る今現在まで切れ目なく、まわりからはずっと変わり者扱いされている。
詩織の知る限り、美紀本人がそれを気にしている素振りはない。詩織も美紀が好きだし、そのぶっ飛びっぷりは、むしろ何となく憧れさえあった。
道の先に悠の姿が見えた。詩織に気付き小走りでやってくる。もう待ち合わせ時刻の五分前だ。いそべえと護国君は遅刻だろうか。詩織が走ってくる悠に気を取られていると突然、後ろから誰かが肩に手を置いた。
「うわあっ!」
驚いて振り返った先にいたのはいそべえだった。
「あ、ごめんびっくりした?」
「え、何で後ろから…。先に大学来てたの?」
「うん。今朝、俺に護国から連絡あって、あいつ一時間勘違いしてたらしいんだよね。だから俺が急いで大学に来て。もう護国は彫刻研究室にいるから。あ、悠さん、おはようございます」
「おはよう。黒川君、先に来てたの? じゃあ美紀ちゃんの作品もう見ちゃった?」
「いや、僕は見てないです。彫刻研究室の前で別れてこっちに来たので」
自分が時間を間違えて、先輩を呼びつけるなんて。詩織はまたムッとしたが、悠にもいそべえにも共感してもらえないであろう事は何となく分かる。「じゃ、行こうか」と会話をとめ、三人で研究室に向かった。
いよいよ美紀の作品とご対面だ。作品自体も気になるが、悠やいそべえ(ついでに護国君も)は、美紀の作品を見て何て言うだろう。でも一番気になるのは美紀の反応だ。自分や悠、いそべえ(ついでに彼も)に言葉をかけてもらって、どんな顔をするだろう。
彫刻研究室は、美術棟一階の奥にある。入口の自動ドアを通り抜け、響く三人分の足音を聞きながら、いよいよ彫刻研究室が近づいてきた。
―― あー、こういう気持ち、なんて言うんだっけ…。
研究室の扉だ。手をかけて体の重心を後ろに。
―― そうだ『ワクワク』! ワックワクだ!
重い研究室の扉が開いた、まさにその時だった。
「もう分ぁかりましたよおっ! こういうことでしょがあっ!!」
張り裂けんばかりの美紀の叫び声が研究室の奥から飛び出してきた。続いて、何かが割れる音、倒れる音、金属音がしつこく響き渡り、『中井戸!』という先生らしき男性の怒鳴り声。ただ事ではない。すぐに奥から美紀が出てきた。大股でズシズシ歩いてくる。
「美紀…?」
詩織達の間をすり抜け、美紀は外へ出て行った。反射的に追いかける詩織に、悠といそべえが続く。
グラウンドの脇には土手がある。美紀はそこに座り込んでいた。放り出した自分の足を睨みつけながら、歯をくいしばって目をぎゅうっとつむっては開き、つむっては開きを繰り返している。頬には涙が流れていた。詩織も、美紀のこの本気泣きは久しぶりに見る。ゆっくり美紀の隣にしゃがんだ。
「美紀、どうしたの?」
鼻をすするだけで、返事はない。
「あのさ、私もしばらくここにいていい?」
やはり返事はない。取りあえずノーではないだろう。詩織も腰を下ろした。悠も詩織の隣に腰を下ろし、いそべえだけ、護国君がまだいる彫刻研究室に戻っていった。
「ねえ美紀、何か嫌な事あったんだよねきっと」
やはり美紀から返事はない。
「あのさ、作った作品の事だよねきっと。…何作ったの?」
「嫌!」
今度は質問を突き返すように返事がきた。詩織もあまり聞き慣れない鋭い声だ。
「嫌! 絶っ対言わない!」
そのあと一時間以上、三人とも黙っていた。風が吹いて体が冷える。
「美紀ちゃん、寒くない? もうお昼だから、一緒にご飯食べよう。私んちにおいでよ」
悠の言葉に返事はしなかったが、美紀はすぐ立ち上がった。多分イエスだろう。三人で悠の家へと向かった。
美紀は悠の手料理を食べている間も食べ終わった後も一言もしゃべらず、帰り際に「おりがとうございました」とこぼすように言っただけだった。
「さっきいそべえから連絡来たんだけどさ」
詩織は珍しく食後の片づけを手伝っている。お皿を重ねて、流しにいる悠のもとへ。
「何があったか分かった?」
お皿を悠の隣に置くと、代わりに洗い終わった箸とコップが詩織の手元に置かれた。
「うん。端的に言うと、先生に怒られたって事なんだけどさ…。美紀、作った作品壊しちゃったみたいなんだよ」
悠がお皿を洗い終わるのを話しながら待つ。詩織の手元に洗ったお皿が積まれていく。全部洗い終わるまでする事はない。
「自分で?」
全部洗い終わって蛇口を閉めた悠に、詩織は食器拭きを渡してあげた。ふう。仕事終り。
「うん。いそべえの話だとさ、もうどんな作品だったか全然分からないほどメチャメチャにしちゃったんだって」
「ええ、あんなに一生懸命作ってたのに。どんな怒られ方したの?」
箸、コップ、お皿を悠がひたすら拭く。
「それがさ、分からないらしいんだよ。『とんでもないもの』を作って、先生に怒られたって事しか」
「とんでもないもの?」
「うん。誰に聞いても教えてもらえなかったって。『言えない』って」
全て拭き終えて、二人ともテーブルに戻った。
「美紀ちゃん何作ったのかな…。言わないって言ってたけど、落ち着いたらもう一度だけ本人に聞いてみようか」
「うん。私聞いてみる」
詩織は悠の前に今洗ったばかりの空のコップを二つ差し出した。働くと喉が渇くのだ。
*
この授業は美紀と一緒のはずだ。詩織は教室に着くなり、隅々まで見渡して美紀を探した。だが、美紀の姿は見当たらない。どうやら来ていないらしい。
教室の左奥へ向かい、空いている席に適当に座った。すると、となりの学生が
「うわ、びっくりした」
詩織を見てそう言った。誰かと思えば
「えっ、美紀!」
美紀が声を出すまで全く気付かなかった。それもそのはず。ヘアバンドも帽子もないし、ネックレスも腕輪も、カラコンもしていない。代わりに普通のメガネをかけて、古そうな、これまた至って普通のセーターを着ている。さらに、いつもチリチリフワッという感じのミディアムヘアも、言っちゃ悪いがボロ雑巾みたいにグシャグシャのヨレヨレだ。
「…どうしたの? いつもと違うよね」
美紀は詩織と目をあわさずに鼻から空気を抜くように笑った。
「まあね」
この一言だけで黙ってしまった。
「あのさ……日曜、先生に怒られたんでしょ?」
「…んー、うん」
「ひょっとしてさ、聞かれるの嫌?」
「うーん…」
ノーではない! だって唸っているだけなんだから!
「悠もさ、ちょっと心配してるんだよ。話せなくたって構わないけどさ、何かこう…色々言ってよ」
ちょっと妙な文章になっている事は自分でも分かっている。でもとにかく、美紀を今のままにしたくない。いつもと違う普通の格好をしている事には理由がある。詩織は今までの経験から確信していた。
「あたし今…」
「ん?」
「なんにもしたくねんだよな」
語尾の「な」が詩織の耳に渦巻いた。美紀は「助けてほしい」と思っている。これも今までの経験から間違いない。でも美紀には助けの求め方、甘え方が分からないのだ。
「じゃあさ、私と美紀で、あと悠と三人でさ、誰かのうちでさ、ゴロゴロしようよ」
慌てて悠をつけ足した。悠がいてくれないとちょっと不安だ。
「ゴロゴロって…」
「たまにはいいじゃん。だってさ、悠もお休みの日は案外ヒマしてるよ」
「うん…」
「じゃ水曜ね。私のうちでいい?」
「うん…」
まんざらでもないらしく、美紀は一応ゆるく笑っている。でも一つだけ、いつもと違うところがあった。
いつも遅刻する先生が、今日に限って時間通り到着した。プリントが前から回ってくる。いつもは詩織を押しのけて先に二人分受け取ろうとする美紀が、今日はおとなしく座って詩織からプリントを受け取った。美紀は書く時以外ノートに手を乗せないのだが、今日はノートを囲うように腕を置いている。自分を囲って守っているみたいだ。
―― 何とかしてあげなくちゃな…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます