鏡 3/6 ~マイペース美紀~

 金曜日の朝。詩織はいつものように自転車で大学の正門を通り抜ける。講義棟に向かって自転車をこいでいると、視界の端に見覚えのあるツナギにチリチリパーマの人影をとらえた。

「あ、美紀ー」

 寝起きらしく、寝癖がついている。詩織の呼びかけに気付かずにのそのそ歩いていく。

「美紀ー!」

 詩織は自転車を美紀の方に走らせた。美紀が脇に抱えているのをカバンだと思っていたが、近付いて見るとどうやら違う。

「お、詩織か。おあよ」

 呼びかけに気付いて返事をした拍子に、脇にはさんだ何かから、ボトリと白い小さな袋が落っこちた。

「あれ、それさ……カイロ?」

「あ…」

 美紀はカイロをひろい上げて「何か」を抱え直した。

「え、それひょっとして寝袋? まさか美紀、また外で寝てたの?」

 注意されるらしい雰囲気を察して、美紀は「ふあん」とどっちつかずの返事をした。ただ、そんな返事をしたところで

「こんな寒い時期に、女の子が一人で野宿なんて危ないって。いくら大学構内でもさ」

 注意はされるのが当然だ。

「わあった。もしない。今日で終わりだから」

「今日で終わり? あ、ひょっとしてさ、作品出来上がったの?」

 美紀はうなずいてからこう言った。

「まだ」

「え?」

 詩織がぽかんとする前で美紀は大口開けてあくびをした。

「まだなの? でもさ…」

「えんえあいあ…」

 二度目のあくびだ。

「え?」

「今週、先生海外出張でいなかったんけど、明日帰ってくんだよ。だあら今日中ん仕上げたい。でもちょっヤバいんだよね」

「そうなの。でもさ、もし間に合わなくても野宿は…」

「あっへおおうい」

 三度目。

「え?」

「わあったよ。もしないって。カイロもないし。でもそん代わり、今日は授業サボっかんね」

「『代わり』って…」

「じゃ」と手を軽く上げて、美紀はさっさと歩いて行ってしまった。次の授業は詩織と一緒のはずなのだが、本当にサボるらしい。



 昼休み、詩織はいそべえとお昼を食べていた。いそべえは一人分の食事を先に食べ終わり、詩織はいつも通り、その倍近くの量食べまくっている。

「あのさ、今朝美紀に会ったんだけどさ」

「あー、ひょっとして寝袋持ってた?」

「何で分かるの?」と質問する前に、詩織はラーメンを口いっぱいすすった。

「わんげあふぁうも?」

「だって昨日、寝袋持って構内うろついてたからね。人目につかなくて尚且つ朝日が差す場所を探してたみたいだよ」

「ふーん…。あの子しょっちゅう大学に泊まってるけどさ、彫刻、そんなに大変なのかなあ?」

「どうだろうね。俺も美紀が作ってるところは普段見ないから、よく分からないけど」

 スープを飲み干して、シューマイを口に放り込む。

「おふぉっふんあふぁあ、いぎよういふうんえほお?」

「ああ、護国ね。うん。日曜に来るよ」

 水を飲んで一息つく。

「あのさ、私も一緒に美紀の作品見たい。悠と一緒に行っていい?」

「うん。朝十時に美術棟で待ち合わせる事になってるから、おいで」

 美紀があれだけ気合を入れて作った作品をみんなで見る日曜が楽しみだ。さあ、残りのミニ天丼とフレンチトーストと、蒸し鶏のパスタサラダとかぼちゃプリンを平らげてしまおう。



                  *



 夜、悠は仕事終りにコンビニに寄っていた。岡本食堂は金曜と土曜、特に忙しい。今日は明日に備えて、早く寝ないと。でもその前に甘い物が食べたい。

 プリン? エクレア? 疲れたからゼリーの方がスッキリするし、カロリー的にもいいかも。何より安い。そうやって考えていると、自動ドアが開く音と女の子の声が聞こえてきた。

「あ、させん。さもんおってます?」

 発音がいい加減すぎて何を言っているのか分からない。この話し方、声は

「はい?」

「サイモン。シャンプんサイモン」

 美紀だ。店員さんは「あ、すいません。サイモン置いてます?」が聞き取れなかったらしく、少々困り顔だ。

「美紀ちゃん」

「あ悠さん! くばんわあ」

 悠に気付くと、美紀は嬉しそうによってきた。ビショビショの髪に首にかけたタオル。まさか…

「その格好、お風呂上がり? もう遅いし、そんな恰好で出歩くのは…」

「や、まだ上がってないんですよ」

 どういう事だ?

「シャンプー切れったんです。普段ったら石ケンでごまかすんですけど、今日はちゃんと洗ったくて」

「え、それでシャンプー買いに来たの? 『サイモン』って、男の人向けじゃなかった?」

「意外にあれが一番パーマもつんですよ。他んはすっ取れちゃって。つも行くスーパー、も閉まっって」

 美紀は髪の毛をいじりながら、とにかくニコニコしている。

「ひょっとして、作品出来上がったの?」

「いやあ、まあ、でったと言えばでっましたね」

 今日はいつにも増して発音がいい加減だ。嬉しい時やテンションが高い時にこうなる事は悠も知っている。

「へえ、楽しみ。明後日みんなで見に行くからね」

「人ん見せられっほどんクオリティじゃないんですけっね。でも見てもらえんは、ちょったんしみです。じゃ、やすんさーい」

 手を振って挨拶すると、美紀はさっさとコンビニから出て行ってしまった。


―― …あれ、シャンプーは?




                  *



 土曜日、公園に詩織と美紀がいた。美紀は作品が完成した充実感と開放感に浸りたいと、詩織をさそって冬のピクニックとしゃれこんだのだ。だが遠出するのは面倒らしく、場所は自宅から徒歩二十分のこの公園だ。

「あのさ、先生は作品見てなんて言ってたの?」

 芝生に広げたシートの上でお昼。詩織はサンドイッチの空袋をしまうと、おにぎりを四つ取り出した。

「まだ見してない。明日ん朝来っから、そん時見せる」

 美紀はとっくにお昼を食べ終わって、おやつに米飴入りのお餅を口の奥でウニウニやっている。このキャラメルサイズの甘ーいお餅が、大のお気に入りだと詩織は知っていた。美紀は昔から、何かを楽しみたい時に必ずこれを持ってくる。

「ねえ、何作ったの?」

「明日んなりゃ分かっから。たんしみにとっとけって」

 詩織が口を開こうとした所で、強風が吹いて会話が中断した。詩織は目を固くつむって顔を斜めに下げて肩にうずめ、美紀は同じく目を固くつむって、風に向かって大口を開けている。

「風うめー」

「ずいぶん頑張ってたよね。大学泊まったりさ」

「うん」と一言返事をすると、美紀は口にもう一つ餅を放り込んだ。

「私は芸術ってよく分かんないけどさ、なんかこう…テーマとかあるの? 込めた想いとかさ。それくらい教えてよ」

 美紀は口をクチャクチャしながらフニャフニャ笑った。

「別に。でんま、無心で全力投球したから、深層心理的にあたしを映す鏡みたいんもんかな」

 らしくない小難しい言い方が自分でもおかしかったらしく、美紀は笑い出した。その拍子に餅を吸い込みそうになってゲホゲホむせたので、詩織は背中を叩いてやった。

 ひと通りむせ終わると、美紀は突然公園の奥を指さした。

「え、何?」

「あすこ。あすこん芝生ん丘、滑れっかな」

「え、まさかこのシートで?」

「ちがちが。ケツでストンて」

「ケツデストンテ?」

「うん」

 美紀のイメージがどういうものかはよく分からないが、とりあえず詩織は美紀について公園の奥にある芝生の丘の上に向かった。さっきより風が強くなって、少し寒い。正直言えばさっさと風がよけられる場所に移動したいのだが、美紀はもう滑ってみるまで止まらない。

「あー、ぜんぜダメだ」

 芝生の上にストンとすわって体をゆすっている。スキー場みたいな急斜面じゃあるまいし、座っただけで滑れるわけないでしょうに。詩織がそう思っていると、美紀は横になって転がり始めた。

「よっこい! おお?」

 三回転で止まってしまった。美紀はさっと立ちあがり、詩織の元まで歩いてきた。もう終わりにして戻るのかと思いきや

「ね詩織、押してくんない?」

 丘の頂上で横になった美紀を詩織が押した。少し転がった後は結局美紀が自分で無理やりゴロゴロ転がっていく。下まで転がり降りると美紀は「ほう!」と叫んだ。楽しそうだ。美紀は満面の笑みで丘を登ってくる。


―― よかったね。さあ戻ろ


「もちょい強く押してみて!」


―― 子供か!


 結局十回は転がしてやっただろうか。美紀は悠ほど背は高くないが、詩織ほど低くも細くもない。何度も押すのは案外疲れる。詩織はクタクタになってしまった。

「ゴメン、私もう限界。戻ろう」

「あそう? じゃも帰ろか」

 そう言うと美紀は詩織を置いてけぼりにして、荷物のあるシートまで走って行ってしまった。最初から最後まで美紀のペースだ。まあ、美紀と二人きりなら、詩織だろうと誰だろうと、美紀のペースに巻き込まれるのは半ば必然ではある。とにかく美紀は楽しそうで嬉しそうで、詩織もそれで満足だった。

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