ドラゴンズ・パレス

 さて、赤ずきんが豚の兄弟の家を訪れる前日のことです。


「……済まない、世話になるな」

「いいですよ、私もあなたのように強い人が側にいると心強いですからね」

 煉瓦で作った家の中、蛍光灯に照らされて一人の男が座っていました。オールバックの髪、サングラス、咥えた葉巻。全身を覆う黒いスーツ。そして、右腕の義手。


 桃太郎です。


 なんということでしょう。彼は生きていたのです。

 あの鬼ヶ島での戦いから、生還したのです。

「それにしても、遠い異国の地から、よくもまあこのようなところまで……」

「訳ありでな」

 桃太郎と向かい合っているのは、一匹の豚でした。

 豚の名前は、トレース。研究の帰り道、狼に襲われたところを偶然通りかかったこの桃太郎に助けてもらったのです。

「まさか道を外れてもいないのに襲われるとは思っていませんでした。最近、狼たちの活動が活発だとは聞いていましたが」

「そうか……」

 桃太郎は頷きます。

「大丈夫だ。俺がここにいる限り、全力であんたを守ると誓おう」

「ありがとうございます。明日、私の兄たちにも紹介したいと思います。この近くに住んでいますから」

 桃太郎は頷きました。

「何か、あなたの力になれるかもしれませんし。『炎に包まれた狩人』を探しているんでしたっけ?」

「そうだ。もう、同じ過ちは繰り返さない。強くなるために、そして共に鬼と戦える仲間を探すために。最近目撃されている『炎に包まれた狩人』の噂を聞き、助力を仰ぐためにここまで来た」

「……ねえ桃太郎さん、差し支えなければここへ辿り着くまでに何があったのか、お聞きしてもよろしいですか?」

 トレースは、この謎めいた青年の正体が気になって仕方ありませんでした。それに、学者である彼の専門は伝承学。遠くから来た旅人の話は、彼にとって素晴らしい研究材料になる場合が多々あるのです。

「長い話になるぞ」

「夜はこれからですよ」

 トレースに促された桃太郎は、口を開きます。

 そして、ぽつぽつと語り始めました。

 かつての自分の生い立ちを。

 桃から生まれ、優しいおじいさんとおばあさんの元で育ったこと。人々を苦しめる鬼を殲滅するため、鬼ヶ島へ向かったこと。そして、それから起こったこと。

 かつて鬼ヶ島で完全に敗北した桃太郎は、満身創痍の状態でそのまま海へと投げ出されました。暗くどこまでも広い海の中、どちらへ進めばいいのかもわからず、桃太郎はとうとう力尽きて海の底へと沈んでいきました。

 しかし、桃太郎の運は尽きていませんでした。

 海底に横たわり、死を待つ桃太郎の目に何かが映ったのです。それは、海底に聳え立つ巨大な城でした。

 どうしてこんなものが、こんなところに……しかし、そんなことを言っている場合ではありません。桃太郎は最後の力を振り絞ってにじり寄り、その門を叩きました。

 彼の意識はそこで途切れ――次に気がついたときは、布団に寝かされていました。

「気がつきましたか?」

 枕元から、声がします。

 顔を上げると、そこには巨大な鯛が浮かんでいました。

「ここは……」

「竜宮城ですよ」

 周囲を見渡せば部屋の中には海藻が茂り、何やら砂粒のようなものがあちこちにふわふわと浮かんで発光しています。鯛も空中に浮かんでいるのではなく、どうやら水中にいるのでした。

 つまりここは水の中です。桃太郎は慌てて息を止めようとして――そして気付きました。ゆっくり鼻から吸って、口から吐きました。桃太郎の口から、ぷくぷくと泡が立ち昇りました。

「息が……できる……」

「ええ。乙姫様のお力です」

「乙姫様?」

「この竜宮城の主人ですよ。門の前で行き倒れそうになっていたあなたを助け、手当てをすることを許可してくれました。そうそう、陸上で暮らすあなたがここで呼吸ができるのも、あの方の能力のお陰なのです。動けるようでしたら、今から乙姫様の元へお連れしますが」

 桃太郎はふらつきながら立ち上がりました。

 見れば、先の戦いで追った傷には丁寧に手当がしてあります。包帯がどう見ても乾燥ワカメなのは気にしないことにしました。

 しかし、よく考えれば消毒・殺菌等に使われるヨードチンキの主成分はヨードです。これはヨウ素の別名ですが、実はこれ、海藻類に豊富に含まれているんです。海藻による包帯は、なんとも驚くべきことに、理に適ったことだったのでした。

 いずれにせよ、手当をして、死の淵から救い出してもらったのです。桃太郎は頭を下げました。

「感謝する。……乙姫様とやらの元へ案内してくれ」

「ええ、ではこちらに」

 鯛は尾鰭を一振りし、すいっと動き出しました。

 竜宮城は巨大な岩をくり抜いて造られているようです。床も壁も天井も、硬い岩盤の表面にふかふかの苔が生えていました。桃太郎が深緑色の苔を踏みしめるたびに、ぷくぷくと気泡が立ち昇りました。砂粒のように小さな夜光虫たちが、水中をふわふわと漂い、光っています。日の光が届かない深海では、こうやって虫たちの光で建物を照らし出しているのでした。

「この先の大広間で、乙姫様がお待ちです。では私はこれにて」

 鯛はすいっと帰っていきました。

 桃太郎は傷を庇いつつ、思い石扉を押し開けます。水中だからか、それはさしたる抵抗もなく開き、桃太郎を迎え入れました。

「……そなたが桃太郎かえ」

 大広間の向こう、巨大な玉座の上にきらびやかな女人が座っていました。

「近う寄れ」

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