ピーチボーイ・リターンズ

「誤変換の能力なんかじゃない。俺の仕業さ」

 狼狽するモモタロウとシルヴァを高みから見下ろすように、一人の男が立っていました。

 黒スーツにサングラス。オールバックの髪。咥えた葉巻。

 桃太郎です。

「貴様……桃太郎!!」

「久しぶりだな、兄弟」

 桃太郎は、かつて生き別れ、道を違えた兄弟モモタロウへ笑いかけました。

「地獄から生きて戻ったぞ」

 モモタロウも笑いました。その笑みは不思議と、穏やかでさえありました。殺したはずの桃太郎が今目の前に立っている。それはモモタロウに、敵意や殺意ではなく嬉しさを呼び起こしたのです。

「お前が生きていることは知っていた。お前が参戦してくるだろうとも。だが、こっちの切り札を封じるとはな……。想像以上だ。何があった?」

「悪いが、お前に話す義務はない」



 桃太郎に何があったのでしょうか。この一ヶ月、何をしていたのでしょうか。

 話は一ヶ月前に遡ります。

 魔女の家を去ったあと別行動をとることにした桃太郎は、ある人物の家を訪れました。その家は、立方体としか言いようのない極めて独特な外観を持っていました。

「貴殿がガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士か」

 玄関(壁も窓も玄関も白一色なので、桃太郎は最初、どこが玄関なのかわかりませんでした)から出てきたのは、ふさふさに蓄えた白いひげを細かい三つ編みにした変な老人でした。この人こそ(まるで世界中ありとあらゆる時代の数学者を結集したように)様々な業績を残し、世界一頭がいいという噂の数学者でした。

「いかにも私がガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士である」

 なんて欲張りな名前だ、と思いましたが口には出さず、桃太郎はそっと言葉を飲み込みました。

「お聞きしたいことがあって参上した」

「アポはとったか」

「いいえ」

「ふむ……アポイントメントもなしに他人の門戸を叩くとは、面白い無礼者が来たな。本来なら追い返すところだが、私は優しい。私の出す問題に答えられたら質問を受け付けてやろう」

「それはありがたい」

 桃太郎は頭を下げます。実際のところ、たとえアポイントメントを取り付けてから行ったとしても、この博士は問題に正解しなければ家に入れてくれないことで有名です。

「私の髭をよく見て、規則性を見つけ出せ」

 博士はそう言って、奥から椅子を持ってくると玄関に置いてどっかりと座り込みました。

 桃太郎は博士の髭をしげしげと眺めます。

 びっくりするほど大量の髭は、変に偏った三つ編みになって細かく分けられていました。

(ドレッドヘアーを髭で実践するとは)

 桃太郎は変な感心の仕方をしましたが、よく見ると、それは三つ編みではありませんでした。一番左の房はただ先端で結ばれているだけ。その横の房も同じです。そして、その次の房は三つ編みではなく二つ編みでした。髪の束を二本くるくると巻きつけています。その次で、ようやく三つ編みになりました。しかしその次は、三つ編みではなく五つ編み。なんということでしょう。その次は八つ編み、十三つ編み……横に行くにつれて大量の髭を編み込んであります。

「1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21......」

「いいペースだ。規則性は見つかったかな?」

 桃太郎は頭の中で何度も数えました。1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21.....等差数列? 等比数列? どちらでもなさそうです。

 ふと閃いた桃太郎は、大きく頷きました。

「なるほど、直前の二つの数の和が次の数になっているというわけか」

「ほっほう! よくわかったな、素晴らしい。これはフィボナッチ数列といってだな、直前の二つの数の和が次の数になっている数列なのだが、それだけではない。隣り合う二項は常に互いに素となっており、さらに隣り合う二項の比の極限は黄金比となり……」

 ガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士の講義は玄関先で90分間続けられ、その後ようやく桃太郎は中に入ることを許されました。

「それで、聞きたいこととは何かね」

 講義を受けたモモタロウはくたくたに疲れていましたが、本来の目的を思い出してなんとか質問を始めました。

「少々事情があって、物理的に一つ上の次元に行きたい。というわけで、俺を積分してもらえないか」

 微分とは、次数を一つ下げること。積分とは逆に、次数を一つ上げること。自分を積分するということは、三次元存在から四次元存在になるということです。桃太郎はこの世界の神を名乗る魔女に打ち勝つため、自分自身を積分してこの世界よりも上の次元に辿り着き、本物の神になろうとしているのでしょうか?

「はっはっは!」

 ガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士は高らかに笑いました。

「残念ながら、それはできん」

「なぜですか」

「私が既に試し、不可能だったからだ。私は数学に限らず世界のすべてを知りたいと思い、君が言ったようなことを試したのだよ。ちょうど十年前のことだったかな……自分自身を積分しようとしてみたのだ。しかし無駄だった。積分定数が定まらないのだ」

 桃太郎は内心肩を落としていました。やはり魔女に勝つ手段はないのでしょうか?

「そうか」

 お邪魔しました、と言おうとする桃太郎をガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士が引き止めます。

「しかし、別のアプローチはまだ試していない」

 桃太郎は、浮かしかけた腰を下ろしました。

「別のアプローチ、とは?」

 ガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士は、その恐るべきアプローチについて語り始めました。

「自分自身を2進数の配列に置き換えることだ……」

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