リコール・アンド・リユニオン

 プロットを書き換えた桃太郎は、『水尾』のパソコンから脱出してネットワーク回線を辿り、『京』まで戻ってきました。

 スパコンの内部から逆変換を起動します。

 次の瞬間、桃太郎の姿が『京』の横に出現しました。今度は0と1ではありません、ちゃんとした肉体です。実体と言っていいのかどうかはわかりませんが……。

「おお、戻ってきたか……」

 ガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士が弱々しげに呟きます。

「どうだったかな、0と1の世界は」

「興味深かった。また使うことになるかもしれん」

 桃太郎は手短に答え、踵を返します。

 当初の想定とは違いましたが、目的は果たしました。作者の意味不明なプロットは、桃太郎によって書き換えられています。あとは作者がそのプロット通りに書き進めれば、目論見は成功です。桃太郎は宿敵に打ち勝って、魔女を救うことができるでしょう。

「世話になったな」

「待て、お前は……何とも思わなかったのか。自分の存在が虚構であることに対して何も感じなかったのか。私はもう……気が狂いそうだ」

 桃太郎は振り返りました。

 ガウス・フィボナッチ・デカルト・フェルマー・ピタゴラス・ニュートン・パスカル・オイラー・ライプニッツ博士は今にも膝から崩れ落ちそうです。世界一の数学者としての自信など、どこかに吹き飛んでしまったようでした。

 それもそうでしょう。彼はこれまで、自分の才覚を信じてひたすら突き進んできたのです。幾多の定理を証明し、幾多の定数にその名を残し、数学の道を極めんとただ努力を重ね、そうして今の地位を築き上げたのです。それらがすべてまやかしだったと知るショックは、想像に難くありません。

「気持ちはわかる。……だが、虚構世界だからといって何が変わるわけでもない。俺たちは生きている。たとえ己の行動が運命だか神様だかによって定められたものだとしても、それはのだということを俺が先刻証明してきた」

 桃太郎は部屋の扉に手をかけます。

「博士、あなたが歩んできた道程はあなたのものだ。世界一の数学者という肩書きが神に与えられたものだとしても、そこに至るまでのあなたの努力は本物だ。自信を持て」

 静かに閉まった扉を眺め、薄暗い地下室で、博士はじっと佇んでいました。



 次に桃太郎が向かった先は、生まれ故郷のおじいさんとおばあさんの家です。

 鬼退治に行くと宣言してから家を出て、そのまま一年近く戻らなかった桃太郎。きっとおじいさんもおばあさんも心配しているでしょう。なんという親不孝者でしょうか。

 それよりも心配なのは、おじいさんとおばあさんが桃太郎が捕虜になったのではないかと考え、鬼ヶ島を襲撃することでした。あの二人ならば、簡単に鬼ヶ島へ潜入できるでしょう。かつて戦場では魔王と呼ばれていた恐るべきナイフ使いのおばあさん。普通の鬼ならば相手にもなりません。しかし……あのモモタロウだけは、いくらおばあさんでも倒せる気がしません。

(そうだ。最初からおじいさんとおばあさんの力を借りておけばよかったのだ)

 桃太郎は今更ながら痛感しました。若さゆえの過ちでした。自分の力に驕り、相手を侮り、そして失敗しました。

(使えるものはすべて使い、借りられるものはすべて借りる。戦う前に敵を調べ尽くす。気を抜かない。手を抜かない。獅子は兎を狩るにも全力を以てするというが……俺という兎は全力とは程遠い状態で獅子に挑んだ。間違っていた)

 しかし、今の桃太郎は違います。

 敗北を知り、成長しました。もう同じ過ちは繰り返しません。

 桃太郎は土を踏みしめて歩きました。そこは、かつての桃太郎が歩んだ道でした。

(そうだ。ここで雉の襲撃を受けたのだ。上空から、逆光を利用して攻撃してきた。味方になったときはなんと心強かったことか。鬼ヶ島まで行けたのも、彼がいたからだった)

 雉とその息子は元気にしているでしょうか。桃太郎が巻き込んでしまい、鬼ヶ島の戦いで深く傷ついた雉。桃太郎は、彼が元気になっていることを願いました。

 桃太郎はさらに歩きます。

 やがて辿り着いた町は、桃太郎が武器弾薬を補充した武器屋があるところでした。

(そうだった。この町で、この武器屋で猿と出会った。裏切ったあいつは手強かった)

 武器屋で出会った猿は、桃太郎の情報を探るために送り込まれた鬼の手先でした。猿の尻の赤さが鬼の肌のそれと同一であることを見抜いた桃太郎は、最初から猿がいつか裏切るであろうことがわかっていたのです。

 それなのに、桃太郎は死にかけました。猿の想定以上の強さ、そして執念が一度ならず桃太郎に敗北を予感させました。

 桃太郎は歩き続けます。

 山道を抜け、峠に差し掛かりました。地面がかすかに抉れています。

(そうだったな。ここで、犬と出会ったのだ。武人としての風格を備えた強く凛々しい犬だった……いや、武犬か)

 強者との血沸き肉踊る闘いを求め、桃太郎に勝負を仕掛けてきた犬。激しい闘いの結果、桃太郎が隠し持っていた切り札『キビダンガン』によって桃太郎は勝利しました。抉れた地面は、そのときの爆発の名残です。

 そして桃太郎に着いてきた犬も、鬼ヶ島で酷く負傷してしまうのです。

(皆が無事であることを祈ろう。そして、また俺に力を貸してもらえるよう、頭を下げて頼もう)

 桃太郎の足が止まりました。

 夕日が差す峠道の先に、一軒の家が建っています。見間違えるはずもありません。桃太郎の家です。おじいさんとおばあさんの家です。

 その家の前に、誰かが立っていました。忘れようもない、おばあさんのシルエットでした。

 桃太郎の視界が、少し滲みました。

 一歩、また一歩と足を動かします。夕日に照らされて優しげなオレンジに染まる、帰るべき我が家に向けて。

(何が虚構だ。何がフィクションだ。これが……これが、作り物であってたまるか)

 家の前のおばあさんが、桃太郎のほうを見ました。しばらく硬直したあと、家の中に駆け込んでいきます。「じいさん! じいさん!」と叫ぶ声は桃太郎にまで届きました。

 桃太郎はニヤリと笑って、歩き続けます。

 すぐに家の中から二人が飛び出し、駆け寄ってきました。

「桃太郎……桃太郎かい?」

 桃太郎はサングラスを外しました。

「心配かけて、すまなかったな」

 二人は固く固く桃太郎を抱きしめました。見違えるように成長した我が子を抱きしめました。すっかり陽が沈んで夜の帳が下りても、三人は抱き合ったまま離れませんでした。

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