シー・サーペント
桃太郎は、今日もぼろぼろになって寝室へと向かいます。
今や桃太郎は、水中での戦い方を身につけつつありました。最初は目の敵にされていた警備兵たちとも何度か拳と鰭を交わすうちにすっかり仲良くなり、とうとう全員を打ち倒した桃太郎は今、警備兵長に鍛えてもらっています。
……そして、まったく歯が立たないのでした。
「また、負けたのかえ」
傷だらけの桃太郎を見て、乙姫は面白そうに笑いました。
それにしても、なんという変化でしょう!
桃太郎は、かつて陸上で生活していた頃とはまったく違う、流線型の筋肉を手に入れていました。水中という尋常でない負荷の中で戦うことで、桃太郎の全身の筋肉は決して肥大することなく、しかし確実に強化されていきます。さらに深海の圧力に適応するため、心肺機能までもが急激に上昇していました。
それだけではありません。粘り着くような水の中、俊敏に泳ぐ魚に対抗するため……桃太郎は水の抵抗を極限まで減らし、その上で最大のパワーを最長の時間発揮するための身体の動かし方を習得していたのです。流れるように、周囲の水と同化するように動く方法を。
周囲に満ちた流体の中で思い通りに動くための体捌きは、きっと空気中でも役に立つでしょう。達人同士の戦いにおいて、空気抵抗による失速は時に勝敗を左右する要素となり得ます。
この竜宮城は、桃太郎にとって実に効果的な特訓環境でした。
「そういえば、俺がここで呼吸できる理由……まだ教えてもらってなかったな」
「おや、そういえばまだ言っておらなんだ。どれ」
乙姫は身体を覆う服を脱ぎ捨てました。そしてカッと眩しい光が乙姫を包み……次の瞬間、そこにいたのは乙姫ではなく、一匹の巨大な海龍でした。まるで巨大な海蛇――艶やかな鱗が全身を覆い、吸い込まれそうに深い青色をした一匹の龍です。
「なっ……!」
「驚いたかのう」
海龍の口が開き、乙姫の声で喋りました。
「妾はのう、海龍の化身なのじゃよ」
海龍の化身。
海龍とは伝説上の生き物です。海に生きるすべてのものたちを束ねる海神。海底の奥深くに暮らし、水を自在に操り、魚たちを意のままに操ります。滅多に水から出ることはありませんが、怒ったときは海から飛び上がり、天を駆け巡り、荒れ狂って嵐を起こすといいます。
海龍の姿で、乙姫は語りました。
乙姫はかつて愛する人に騙され、海へと突き落とされました。もがけばもがくほど水は身体に絡みつき、深く深く引きずり込まれます。息もできず、何も見えず、海の底へ沈みながら激しい絶望と怒りを味わったとき、まるで、そう、神の祝福か悪魔の呪いのように突然手に入れたのがこの『海龍化』の能力なのでした。
それ以降、乙姫は海水の中で普通に生活することも魚を従えることも容易にできるようになったのです。桃太郎が海中で呼吸できるようにしてくれたのも、この海龍の力でした。
「そういうわけじゃ。どうやって妾がこの力を手に入れたか、それは妾自身よくわかっておらぬでな」
乙姫は、しゅっと元の姿に戻ります。
「なるほど……」
桃太郎は考えました。
目の前で見せられた、明らかに人智を超えた能力。このような能力を持つ者は、果たして乙姫だけなのだろうか? 地上にもまだ別の能力を持つ者たちがたくさんいるのではないか? その者たちを仲間に引き込めれば、再戦の勝算は格段に上がるのではないか?
桃太郎は決めました。
地上に出たら、まずは仲間を探すのです。
犬、猿、雉だけでなく、もっとたくさんの頼れる仲間を。乙姫のような能力を持っているわけでもない以上、自分一人の強さには限界があります。かつて自分の強さを過信して敗れた桃太郎は、もうどこにもいませんでした。
「警備兵長に勝てたとき……俺は城を出る」
「好きにするがよい」
乙姫は桃太郎を抱き寄せました。
「ならば残り少ない主との逢瀬、愉しんでおかねばのう」
すっかり傷も癒え、そして戦闘技術だけでなく床の上でのテクニックも上達した頃……桃太郎は、ついに警備兵長を打ち倒しました。
警備兵たちのやんやの喝采を浴び、海底に横たわる警備兵長はとても悔しげで……でも、なんだか少し嬉しそうでした。
「まさか、ここまで強くなりやがるとはな。完敗だ……どこへなりと行っちまえ」
「世話になった」
桃太郎は、警備兵式の最敬礼をしました。周囲の警備兵たちの喝采や口笛が一層高まりました。
いよいよ出発の刻です。
旅立つことを決意した桃太郎は、部屋に戻って荷物を纏めます。
「おや、行くのだね。寂しくなるのう」
竜宮城の入り口には、たくさんの魚たちが桃太郎を見送るために集まっていました。
「この数ヶ月、何から何まで本当に世話になった。このご恩は、いずれ」
命を救ってもらったばかりでなく、(純潔こそ奪われましたが)こうして強くなるための手助けまでしてもらえたのです。感謝しかありませんでした。
「そして、無理を承知で頼みがある」
「……内容次第じゃ。言うてみい」
乙姫は先を促します。
「俺はこれから仲間を集め、一度は敗北した鬼ヶ島へと再度戦いを挑むだろう。そのときに、どうか力を貸して欲しいのだ」
乙姫は、ふん、と鼻を鳴らします。
「妾は竜宮城の主じゃぞ。ただの遭難者であるお主の戦いに力を貸す義理などどこにもない……が」
乙姫はニヤリと笑います。
桃太郎を見送りに集まってきた警備兵たちも、ニヤニヤと笑みを浮かべました。
「もし仮に警備兵たちが、妾に見つからぬようこっそり勝手にお主を助けに行ってしまえば、妾にはどうしようもないがのう」
桃太郎は深く深く頭を下げました。
こうして、竜宮城を出た桃太郎は仲間を探す旅へと向かったのです。
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