マイティ・ロング・フォール

 ふたつの影が交差しました。

「……この程度か」

 互いに武器を振り抜いた姿勢のまま数秒間が経過し……がくりと膝を着いたのは、桃太郎のほうでした。

 桃太郎のナイフが二本同時に砕け散り、口の端から血が一筋流れ落ちます。

「幼少期より鬼の中で育った俺と、ぬくぬくと人間の中で育ったお前と。これほどに力の差が開いているとは、俺自身も思っていなかったぞ。俺はまだ、さえも使っていないというのに」

 振り返ったモモタロウは、驚きの表情を浮かべていました。

「なんて様だ、なあ兄弟。それがお前の答えか? お前が生きてきたその道が、その答えが、これなのか?」

 桃太郎は答えませんでした。

 正確には、答えられませんでした。

 二人が交差したあの一瞬、桃太郎の攻撃はただのひとつも届きませんでした。けれどもモモタロウの一撃は、桃太郎の肺を完全に貫いていたのです。今や桃太郎は息をすることもままなりませんでした。肩を上下させ、苦しそうにモモタロウを見上げました。グラサンが外れて落ち、カタン、と床で跳ねます。

 ごふ、と桃太郎が血を吐きました。

「……興が削がれた。もういい」

 モモタロウは窓を開け放ち、震えながら成り行きを見つめているフェザーに顎で示しました。

「おい鳥、そのボロ雑巾ふたつを持って消え失せろ」

 フェザーは桃太郎を見ました。桃太郎はかすかに頷きました。フェザーの目から涙が溢れました。

 二人を掴み、フェザーは窓の外へと飛び立ちます。その姿はすぐに夜の闇に飲まれ、消えていきました。

「どうだ? 情けをかけられた気分は。お前が勝ったら解放してやるという約束だったが、可哀想だから解放してやろう。俺は優しいだろう?」

 桃太郎は黙って項垂れていました。

 力の差が大きすぎました。見通しが甘かった、もっと鍛えてから、もっと作戦を練ってから、もっと仲間を増やしてから、それから来るべきだった。そんな後悔が頭の中を駆け巡りました。

(偉そうなことを言っておいて、なんて情けない姿だ。俺は弱い。何が軸だ、何が答えだ、どんな綺麗事を言ったって結局強い者が正しいんだ)

 桃太郎は前のめりに倒れ、床に突っ伏しました。

 胸の傷からはとめどなく血が溢れ出していました。

「こいつはもういい。臓腑を抉った、放っておいても死ぬだろうが……ここで死なれるのも面倒だ。海にでも放り込め」

「はっ」

 巨体の鬼が立ち上がり、桃太郎を担ぎました。

 鬼ノ内センタービルのすぐ後ろには海が広がっています。鬼はフェザーが飛び去ったのとは反対側の窓に近寄り、開け放ちました。眼下には、茫漠たる海が広がっています。

 さあっと涼しい夜風が吹き込んできました。

「さらばだ、我が兄弟。結局お前も、俺の求めるものを与えてはくれなかったな……それならば『ももたろう』は一人でいい。お前は、いらない」

 鬼は、桃太郎を投げ捨てました。

 高層ビルの最上階から、桃太郎は重力に引かれて落下していきます。耳元で轟々と風が唸り、風圧で目も開けられません。胸の傷からは、まるで桃太郎の軌跡を描くように血が溢れていきました。

 それから数瞬後、桃太郎は海面と激突しました。

 全身が砕けそうな衝撃のあと、じわりじわりと水の中へと引き込まれていきます。夜の海の重たい水はゆるやかにうねり、まとわりつき、桃太郎を海中へと引きずり込もうとします。

 そのとき、力を失ってだらりとしていた桃太郎の手が、急に力強く動き始めました。

(まだ……終わらんぞ)

 桃太郎はもがき、懐に入れておいた白キビダンゴを口に含みました。

(このままで終わってたまるか)

 必死で水を掻き分け、海面から顔を出しました。

 たとえ胸の傷がキビダンゴによって治ったとしても、この広い大海原です。桃太郎が生きてどこかの岸にたどり着くとしても、それは限りなく低い確率でした。

(今回は負けた。完膚なきまでに負け、あろうことか情けまでかけられた。落ちるところまで落ちた)

 桃太郎は必死で水を掻きながら息を吸いました。

 鬼ヶ島は桃太郎からゆっくりと遠ざかりつつありました。島に取り付けられた推進器が一斉に稼働し、航海を始めたのです。鬼ヶ島それ自体が、まさに動く要塞……こうやって見ると、その姿はあまりにも巨大でした。

 敵わない。桃太郎は直感しました。

(だが……今は勝てずとも、俺は生きている。犬も雉も生きている。次がある。同じ失敗はしない)

 数匹の仲間を得ただけで考えなしに突撃した、過去の自分を嘲笑ってやりたい気分でした。

(仲間を増やそう。作戦を練ろう。力を高めよう。自分にできるすべての準備を整えて、もう一度あそこに戻ろう)

「だから、そのために!」

 桃太郎は地平線に向かって叫びました。白キビダンゴのおかげか、貫かれた肺はある程度回復しているようでした。失血による衰弱はもう心配ありません。あとは体力が保つうちに陸に辿り着くだけです。

 それがどれほど難しいことか、どれほど絶望的なことか、もちろん桃太郎は理解していました。

 それでも。

「俺は死なん! 絶対に!」

 力強い叫びが響きました。

 波間に漂う桃太郎の姿は、やがて黒い海に呑まれて見えなくなりました。





第一部・完

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