ズキン・ザ・ファイヤー
突如炎上した赤ずきん。
「何だあ……っ?」
赤ずきんの喉笛に喰らいつかんとしていた狼は、その熱に鼻先を焼かれて飛び退ります。
倒れ伏す赤ずきんの腕がピクリと動き、床を引っ掻きました。手足が動きます。首が動きます。糸の切れた操り人形に新しい糸が張られてゆくように、赤ずきんはその身体を不気味に蠕動させます。
「よくもおばあちゃまを殺したな」
その喉から不気味な声が響きました。
床のパンとぶどう酒が音を立てて舞い上がりました。赤ずきんの胸に空いた穴に、パンが飛び込みました。それは心臓の形をしていました。
胸の穴からぶどう酒が注ぎ込まれていきました。それは血の色をしていました。
赤ずきんの傷ついた体を、失われた血を、パンとぶどう酒が補ったのです。
いつしか穴は塞がっていました。
それは復活の奇跡。パンはその肉、ぶどう酒はその血となって赤ずきんの命を再構成したのです。
「……っ!」
確かに息の根が止まっていたはずの赤ずきんが、燃え盛る炎に包まれてゆっくりと身体を起こします。狼を睨みつけるその瞳に浮かぶのは、紛うことなき殺意と燃え盛る復讐心です。
「よくも」
さっきまで花を摘んで冠を作っていた少女とは、もはやすべてが異なる存在でした。まるで封印を解かれた怪物が地の底から這い上がってくるように、少女は立ち上がりました。
「よくも私を殺したな」
今や室内は異様な熱気に包まれていました。狼の全身から汗が滴ります。それは炎の熱気によるものと、目の前の少女から発せられる威圧感による冷や汗が混じったものでした。
不思議な炎が赤ずきんの全身から噴き出していました。それは渦巻き、ねじれ、飛び散りながら赤ずきんの周囲を踊り狂います。許せない、ただ許せないという強く純粋な怒りが、失われた命に代わって少女の身体を満たし、溢れ出しているのです。決別した神に代わって、魔女が彼女に祝福を与えたのです。
今や、可愛らしい少女であった赤ずきんはどこにもいませんでした。
「許さない。許さない。許さない!」
そこにいるのは、その身に炎を纏いて狼を狩る者です。
おばあさんに作ってもらった赤いずきんは今、炎と同化して赤ずきんの頭部を覆うアーマーと化していました。かわいらしいブラウスは鮮血と獄炎で染め抜かれた鎧となっています。今や赤ずきんは狼を殺すための戦士、炎の聖処女として生まれ変わったのです。
熱気で室内に陽炎が発生し、狼の視界がぐらりと歪みました。
「何だ……何だお前は!」
耐えられないほどの熱気に、狼は堪らず窓から屋外へと脱出します。あの不気味な少女から離れなければ、と本能が告げていました。狼は全速力で駆け出します。
「くそっ、一体どうなってやがる……」
「知りたいか」
走る狼の背後に出現した赤ずきんが、耳元で冷たく囁くと同時に狼の首を掴んで引き止めました。
「うぐ、う、うわああああ」
赤ずきんに掴まれている首がじゅうじゅうと音を立てています。赤ずきんの掌それ自体が熱した鉄板のような高熱を発し、狼を責め苛むのです。
狼に勝ち目はありませんでした。目の前の炎を纏った聖処女は、小汚い自分など一撃で炭にしてしまうでしょう。
命の終わりを悟った狼は、恐怖に駆られて前足を闇雲に振り回します。鋭い爪は、当たるだけで赤ずきんの柔らかい肉をごっそり奪い取っていくでしょう。しかし、爪が再度赤ずきんの喉を抉ろうとしたとき、それは指の中ほどからふっと消失しました。
いや、正確には「焼失」したのです。
狼の喉から声にならない苦鳴が漏れました。
「怒りだ。母の愛が私の命を繋ぎとめ、怒りが地獄の業火となって私を覆っている。その汚い爪で触れられるものなら触れてみろ、塵め!」
赤ずきんは咆吼し、狼を蹴り飛ばしました。
いかなる威力か、その蹴りで吹き飛んだ狼は、その先にあった大岩に半ば食い込むようにして激突しました。
「がっ……がはっ……」
全身の骨が砕け散る音が響きました。傷つき、焼け焦げ、血まみれのボロ雑巾と化した狼に、ゆっくりと歩み寄る赤ずきん。炎を従えるその姿は、まさに地獄からの使者です。
「今のが、貴様に殺された祖母の分」
赤ずきんはいつの間にか、おばあさんのリボルバーを握りしめていました。
身体の前で構えます。銃を撃ったことはありませんが、どうすべきかは不思議と理解していました。指が弾倉を撫でるように回転させました。
「そして、これが貴様に殺された私自身の分だ。最後に言い残すことはあるか」
狼は己の最期を悟りました。
そして、嗤います。
「狼ってのはなあ……群れで行動するもんだ。俺がやられたとわかれば、全員で反撃に来るぜ。はは……ははは……喰われちまえよ。地獄で待ってるぜ」
狼の中指がピンと立ちました。
「そうか」
赤ずきんは躊躇なく引鉄を引きます。
飛び出した炎の弾丸が狼の眉間を穿ち、黒い穴を開けました。背後の岩に、狼の頭蓋の内容物が飛び散って赤い幾何学模様を描きます。狼の目が裏返り、口からだらんと舌がはみ出しました。
次の瞬間、頭が内部から燃え始めました。
炎はすぐに全身に回り、息絶えた狼の骸は激しく燃え上がります。赤ずきんの持ったリボルバーには弾は込められていませんでした。赤ずきんの纏う炎が、弾丸の形をとって撃ち出されたのです。
やがて狼は灰も残さずに燃え尽きました。後には、地面に少しの焦げ跡が残っているばかり。
赤ずきんは踵を返し、おばあさんの家まで戻りました。
血溜まりの中に落ちていた花の冠を拾い上げます。赤ずきんの手に触れた瞬間、それは燃え上がりました。
赤ずきんの目に涙が一滴盛り上がりました。けれど、それは炎に舐め取られ、零れ落ちる前に消えていきました。
今の赤ずきんには、泣くことさえも許されていないのでした。
「さようなら、おばあさん。どうぞ安らかに」
赤ずきんは、血に濡れたリボルバーと炎を纏う花の冠をおばあさんの胸元に置きました。炎はやがて冠を燃やし尽くし、おばあさんと一緒に灰にしてくれるでしょう。赤ずきんは床に倒れていたおばあさんのマスケット銃を拾い上げます。
過去との決別。神との決別。
狼を狩る者として生まれ変わった赤ずきんは、踵を返して家を出ました。背後で家が燃え上がります。赤々とした色彩が森の緑と混じり合い、木材の爆ぜる音が響き渡りました。
赤ずきんは振り返りませんでした。
おばあさんの銃をその背に担ぎ、ただひとつの決意を胸に、赤ずきんは森の奥へと姿を消しました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます