ラヴ・ユア・エネミーズ

 一方、花の冠を作り終わった赤ずきんはスキップしながらおばあさんの家へと向かっていました。

「かわいくできたわ、きっと喜んでくれるはず」

 おばあさんは猟師です。家の中には、いつも独特の匂いが漂っています。

 それは鉄の匂いであり、油の匂いであり、硝煙の匂いであり、獲物の血の匂いでした。赤ずきんは、それらが混ざり合った匂いが嫌いではありませんでした。慣れていたからです。

 しかし、今おばあさんの家の周囲に漂っているのは、そんな赤ずきんも思わず顔をしかめるほどの匂いでした。

「うっ」

 赤ずきんは思わず口を押さえます。

 普段嗅ぎ慣れているはずの鉄くさい匂いが、これまでにないほど強いのです。

 そして、扉がありません。蝶番の部分は捻じ切れていて、まるで力任せにこじ開けられたようでした。その奥の食器棚は粉々に破壊されていて、割れた陶器と木の板が積み重なっています。

「おばあちゃま! 何があったの」

 ただならぬ異変を感じ取った赤ずきんは、慌てて家の中に飛び込みました。 

 そして、目の前が一瞬真っ白に染まりました。

 何が起こったのかわかりません。突然息ができなくなり、何か温かいものが胸を伝い落ちていきます。

 胸から飛び出した黒い何かを視認し、赤ずきんはうっと呻きました。それから胸を貫いた何かがずぼ、と引き抜かれるのを感じました。衝撃のためか痛みは感じませんでしたが、全身から一気に力が抜けていくようでした。鮮血が白いブラウスを染めていきます。支えを失った身体が横倒しになり、視界が横転したことで初めて赤ずきんは自分が倒れたことを知りました。

 持っていたパンとぶどう酒が床に落ちました。

(なに……なにが起こったの)

 紅く染まる視界の中、赤ずきんを見下ろして笑う影があります。尖った耳、大きく裂けた口。そう、それは森の入り口で出会った狼でした。

「おばあ……ちゃま……」

「俺はおばあちゃまじゃないぜ。おばあちゃまはそこにいるさ、ほら」

 影が指差すベッドを見れば、血溜まりの中に変わり果てた姿のおばあちゃまが倒れています。

「あ……あああ……アアアアアアアアアッッ!」

 赤ずきんは絶叫しました。それは慟哭でした。最愛の祖母を無惨な姿で見せつけられたのです。見開かれた目から涙が幾筋もこぼれ落ち、床の血と混ざり合いました。

 赤ずきんの胸に空いた穴からは、止まる気配もなく血液が流れ出しています。

(なんてこと……私がうっかり寄り道したばっかりに……)

 赤ずきんはもはや力の入らない腕を、それでも狼に向けて伸ばしました。

「お前のおばあちゃまはな、死ぬ直前まで言ってたぜ。何度も何度も、『赤ずきんだけは、赤ずきんだけは』ってな」

 せせら嗤う狼は、容赦なく赤ずきんの腕を踏みつけました。

「あまりに煩かったんでな、こう言ってやったんだ。『やなこった』ってな! その瞬間の悲しげな顔といったらなかったぜ! ははは、お笑いぐさだ!」

 倒れ伏す赤ずきんの頭に口を近づけ、狼はなおも囁きます。

「ま、喰わなかったけどな。あんな歳とったババアの肉なんざ喰えたもんじゃねえ」

 赤ずきんの体が冷えていきます。

 命の源が、血液が流れ出していくのが赤ずきんにはわかりました。すでに手足を動かすことさえできません。あとは狼に喰われるのを待つだけの、死にかけた身体です。

 その中で、頭の中だけが不思議な熱を持っていました。そこだけが、死に抗おうとしていました。

「おっと、お前はキッチリ全部食ってやるから安心しな」

 狼の言葉が切れ切れになって耳に届きます。

(私……もうじき死ぬんだわ。でも、その前にやるべきことがあるはずよ)

 冷え切った体の奥で、かすかに灯る炎があります。これは何でしょうか。この熱さは、何でしょうか。赤ずきんの手が、かすかに動きました。

(……許さない。おばあちゃまの仇を討つまで死ねないわ)

 胸の奥で燃え盛る篝火のような感情が、どろどろと溶けて流れ出しました。感情は奔流となって、赤ずきんの体を覆います。赤ずきんは持ち上げた手をゆっくりと動かし、顔の前で十字を切ります。

 ごめんさない、神様。私は、あなたの教えに、逆らいます。

 床に落ちているパンとぶどう酒の入った籠が、カタカタと震えだしました。パンは主の体、ぶどう酒は主の血。汝、自分の敵を愛せよ。いいえ、愛することなどできません。迫害する者のために祈れ。いいえ、私はもう祈りません。

(……絶対に許さない)

 祖母を殺したこの狼を許してはいけません。この狼が存在する限り、いや、この世に狼が存在する限り、人々に安息が訪れることはないのです。

 燃え上がる感情、それは怒りでした。

 その怒りは、赤ずきんに神との決別を促しました。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す? そんなのは間違っています。祖母が討たれたならば、祖母の仇を討つのです。新たに右の頬を打たれる者が出ないようにしなければなりません。

 怒りの炎に包まれ、狼を狩る者となるのです!

(……許さない!)

 赤ずきんの身体がぼうっと音を立てて燃え上がりました。

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