アイデンティティ・クライシス

「十六年前のことだ。とある山奥で、川上から大きな桃が流れてきた――それは普通の桃よりもはるかに大きかった。その桃を割ると、中から赤ん坊が出てきた。そうだな? 桃太郎よ」

 モモタロウは静かに語り始めました。

「……ああ」

 桃太郎は頷きます。

「お前は山奥で拾われたらしいが、もう片方の桃は拾われなかった。拾われたのは、鬼ヶ島だ。桃の中から出てきた赤ん坊は、本来ならばそのとき食われる運命だった。だが、長老の言葉がそれを止めた。長老は、人間の赤ん坊を鬼の手先に育て上げ、人間社会征服の尖兵としようとしたのだ。赤ん坊は桃から生まれたモモタロウと名付けられ、鬼に囲まれて鬼として育った」

 自分の兄弟を名乗るこの男の口から、一体何が語られるのか。惹かれる部分があることは否定できませんでした。

 決して油断はしないように、けれど耳を傾け、目はモモタロウの口元を凝視し……いつの間にか桃太郎は、目の前の男の話に引き込まれていきました。

「成長したモモタロウは長老や他の鬼たちからの指導により、やがて鬼の強さと人間のしたたかさを併せ持つようになっていった。人間社会を乗っ取るには、鬼ヶ島の技術レベルが人間のそれを凌駕せねばならぬ。そうだろう? 人間を襲って手に入れた工具や図面を読み取り、時には生けどりにした人間を働かせ……まずは鬼ヶ島の改造に着手した。ただの浮島だった鬼ヶ島は、あっという間に近代化を遂げた。驚くべきスピード……と言っていいだろう。この鬼ノ内センタービルもその産物だ」

 モモタロウは手を広げ、室内をぐるぐると歩き回りながら熱に浮かされたように話し続けます。

「時は流れ、弱った長老は、俺を正当後継者に指名して息絶えた。俺は名実共にこの島の王となった。そんなときだ、お前の噂を聞いたのは!」

 モモタロウは桃太郎に詰め寄ります。

「桃から生まれた桃太郎と名乗る男に、同胞たちが次々と殺されているという……奇しくも同じ名前? 同じ生い立ち? しかも、そいつは俺と瓜二つ? これが『奇しくも』であってたまるか! 俺は調べた。鬼の手先が鬼だけでないことは、お前も知っているだろう。猿も使った。狼も使った。ありとあらゆる協力者に調べさせた。お前がどうやって生まれどうやって育ったのか、おそらく誰よりも把握している。だが」

 桃太郎の胸ぐらを掴み、モモタロウは顔をぐっと近づけました。

「お前の口から聞きたい。教えてくれ、桃太郎。お前のことを。そして俺とお前との違いを」

 その瞳には殺意どころか、敵意さえありませんでした。モモタロウと名乗る男は、ただ訊いていたのです。自分が知りたいことを、ただ純粋に。

 桃太郎はそれに答えました。

「俺は……俺は、拾われた。ばあさんが川に洗濯に行ったとき、川上から大きな桃が流れてきた。そして、足を滑らせてひとつめの桃を拾い損ね、ふたつめの桃だけを持って帰ったらしい。それから俺はじいさんとばあさんに育てられた」

「それだ」

 モモタロウは今や、ギラギラと光る目で桃太郎を睨みつけていました。

「それが俺の知りたかったことであり、お前に訊きたかったことだ。どうして上流から桃が二つ流れてきたのか、そんなことはどうだっていいんだ。ただ一つ。? 片方は人間に拾われ、鬼を狩る。片方は鬼に拾われ、人間を狩る。その違いを生んだのは何だ? お前のばあさんとやらが足を滑らせなかったらどうなっていた?」

 激昂しているわけではありませんでした。モモタロウはあくまでも訊いているだけでした。自分の境遇をすべて曝け出した上で、桃太郎の境遇も把握した上で、桃太郎とモモタロウの違いはどこで生まれたのか、と問うているのでした。

「俺とお前は桃から生まれた。姿も年齢も同じ。兄弟というより双子と言うべきか……双子でありながらここまでの差が生まれた。では、お前と俺が逆だったらどうなっていた?」

 もしもモモタロウのほうが拾われていて、桃太郎のほうが鬼ヶ島に流れ着いていたら。

「俺はずっと問いかけてきた。捕食される側でありながらこの島の頂点に登りつめるまで、俺は一度たりとも気を抜いたことはない! 気を抜けば死んでいた。食べるときも、寝るときでさえもだ! 人間に統率されるのを不服とする鬼たちがどれだけいたと思う? そいつらが俺に対して何をするか、想像できぬお前でもあるまい!」

 桃太郎は黙って聞いていました。

「今だから、お前だから言う。地獄のような日々だった。理解者はいなかった。味方もいなかった。なあ、お前は人間に囲まれ、人間として育った人間だろう。教えてくれ。じゃあ俺は? 人間の身でありながら鬼に囲まれ、鬼として育てられた俺は、誰なんだ? この怒りをどこに向ければいい? どうして、?」

 桃太郎はすべてを理解しました。

 桃太郎に倒されるとわかっていながら平然と鬼の兵を送り込んできたのは、鬼のことを仲間だと思っていないからでした。手下の鬼たちは皆、使い捨てのコマに過ぎなかったのです。

 そして桃太郎に会おうとしていたのは、自分とは何かを問うためでした。

 モモタロウは探していたのです。自分という存在の証明を。人間でも鬼でもない自分の行く道を。

 見極めようとしたのです。桃太郎と会い、話すことで、二人の違いを生み出した原因を。何が違ってしまったのかを。どうして双子なのに自分だけが苦難を強いられたのかを。

 目の前に佇む男は、紛うことなく桃太郎の兄弟でした。辿った道がどこかで少し……ほんの少しだけずれてしまった兄弟でした。そして、その道の行き着く先はあまりにも違ってしまったのです。

 桃太郎はゆっくりと口を開きました。

「お前は……」

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