第7話 崩れゆくピース

朝の薄明かりがNDSラボの窓から差し込み始めた頃、奈緒美は依然としてデスクに向かっていた。疲労が蓄積しているにもかかわらず、彼女の意識は鋭く、手元の資料に集中していた。山田さんが遺したメモ、三浦誠一との会話、そして図書館で見つけた本――これらの断片が頭の中で組み合わされ、少しずつ全体像を形作ろうとしていた。


「誤用される技術……それを恐れていた山田さん……」


奈緒美は、その恐れが現実のものとなったことを感じていた。だが、山田さんが「リセット」を試みたことが、なぜ彼の命を奪う結果になったのか、その答えはまだ見つかっていない。


「彼は誰かに操られていた……でも、それが一体誰で、何のために?」


その時、ドアが静かにノックされ、神谷悠が入ってきた。彼は早朝からオフィスに来ている奈緒美を見つけ、少し驚いた様子だったが、すぐに表情を引き締めた。


「おはよう、前田。まだここにいたのか。」神谷は奈緒美の隣に座り、彼女が調べていた資料を覗き込んだ。


「おはようございます、神谷さん。色々と考えていたら、眠れなくて……」奈緒美は目の下のクマを隠すように、少し笑ってみせた。


「それで、何か進展はあったか?」神谷は淡々と質問を続けた。


「はい。山田さんがリセットを試みた理由が、技術の誤用を止めるためだったのかもしれないという仮説が浮かんでいます。ただ、それが何を意味するのか、まだ全てを繋ぎ合わせることができていません。」


奈緒美は手元のメモを指差しながら説明した。「彼が操られていた可能性が高いですが、その背後にある意図が分からないままです。」


神谷はしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。「その意図が何であれ、我々はそれを突き止めなければならない。だが、まずは一つの仮説に基づいて行動しよう。企業側が隠している事実を暴き出すために、彼らの内部情報をもう一度精査する。」


「内部情報ですか?」奈緒美は眉をひそめた。


「そうだ。これまでに入手した情報の中に、見逃している重要な手掛かりがあるかもしれない。」神谷は冷静に続けた。「企業がこれほど慎重に隠そうとしている事実を暴くためには、さらに深く掘り下げる必要がある。」


「分かりました。」奈緒美は即座に神谷の提案に従うことを決めた。


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奈緒美と神谷は、企業側から入手した資料を再び精査し始めた。膨大な量の内部文書やメールのやり取りをチェックする中で、奈緒美の目が一つの文書に留まった。それは、数年前に行われた内部監査の報告書だった。


「この報告書……」奈緒美はその一節を声に出して読み上げた。「『デバイスの試験運用中に、予期せぬ誤作動が発生。その原因は外部信号による干渉の可能性が高いとされているが、詳細な調査は行われていない』……?」


神谷もその報告書に目を通し、眉をひそめた。「これは……」


「つまり、この問題は以前から把握されていた可能性がある、ということですよね?」奈緒美は苛立ちを隠せずに言った。「彼らはそれを知りながら、何も手を打たなかった……」


「その可能性は高い。」神谷は冷静なままだった。「そして、この問題が公になることを避けるために、隠蔽工作が行われたのかもしれない。」


奈緒美は、その事実が信じられない様子で再び報告書に目を落とした。「これが真実なら……彼らは多くの命を危険に晒し続けていたことになります。」


「企業の利益を守るために、危険を隠していた……それが山田さんの命を奪った原因かもしれない。」神谷は静かに続けた。


「でも、山田さんがリセットを試みたのは、それを止めるためだった……? それとも、何か他に目的があったのでしょうか?」奈緒美は考えを巡らせた。


「それを突き止めるために、さらに調査を進めよう。」神谷は資料を閉じて言った。「この報告書を基に、企業側に再度問い詰める必要がある。」


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その日の午後、奈緒美と神谷は企業側との会合に臨んだ。会議室には企業の法務担当者と技術部門の代表が揃っていたが、彼らの表情には緊張が走っていた。


「本日はお時間をいただきありがとうございます。」神谷は落ち着いた口調で挨拶を交わし、すぐに本題に入った。「私たちは、御社が保有するデバイスに関する内部監査報告書を精査しました。そこには、外部信号による誤作動の可能性について言及されていましたが、この問題に関して、どのような対応をされたのでしょうか?」


企業側の法務担当者は、一瞬戸惑ったように視線を泳がせたが、すぐに冷静さを取り戻した。「その報告書は、あくまで初期段階での検討に過ぎません。我々はその後の調査で、問題が発生する確率が極めて低いと判断し、適切な対策を講じました。」


「適切な対策……?」神谷は問い返した。「しかし、現実には複数の死者が出ており、誤作動が発生した可能性が高い。貴社がその事実を認識しながらも、適切な対応を怠ったとすれば、それは重大な過失ではありませんか?」


企業側の代表は冷静を装っていたが、その声にはわずかな動揺が感じられた。「我々は常に安全性を最優先に考えておりますが、全てのリスクを完全に排除することは困難です。誤作動が発生した事例があったとしても、それが我々の直接的な責任であると断定することはできません。」


「では、山田さんのケースはどう説明されますか?」奈緒美が声を上げた。「彼はリセットを試みた際に亡くなりましたが、その原因は貴社のデバイスの誤作動によるものだと考えられます。」


企業側は一瞬、奈緒美の視線を避けるようにしたが、やがて言葉を選びながら返答した。「山田様の件については、まだ詳細な調査が行われていません。我々はその件についても全力で調査を進めております。」


「調査が遅すぎるとは思いませんか?」奈緒美の言葉には怒りが含まれていた。「彼が亡くなったのは、貴社の怠慢によるものである可能性が高いのに、その事実を隠そうとしているのではないですか?」


企業側は沈黙を保ち、しばらくの間、会議室には重苦しい空気が漂った。その沈黙を破ったのは神谷だった。


「我々はこの問題を公にするつもりです。」神谷の言葉には、はっきりとした決意が感じられた。「これ以上、犠牲者が出ることを防ぐためにも、貴社の協力が不可欠です。もしも隠蔽工作が行われているのであれば、即刻中止し、全ての情報を開示することを強く求めます。」


企業側の代表は、神谷の鋭い視線を受け止め、再び沈黙した。やがて、彼は重く息を吐き、静かに頷いた。「分かりました。全ての情報を開示し、真相を明らかにするために協力します。」


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その夜、奈緒美は自宅に戻ったが、頭の中にはまだ企業との会合のことが渦巻いていた。彼らが本当に協力するのか、それとも別の策を講じようとしているのか――その疑念が消えない。


彼女はシャワーを浴びて疲れを流そうとしたが、心の中のざわめきは止まらなかった。「本当に彼らは真実を明らかにするつもりなのか……」


その時、彼女のスマートフォンが鳴り、着信を知らせた。画面に表示されたのは、榊原明の名前だった。


「はい、前田です。」奈緒美は電話に出た。


「前田、今すぐラボに戻ってくれ。新たな情報が入った。」榊原の声は緊張感に満ちていた。


「分かりました。すぐに向かいます。」奈緒美は急いで準備を整え、再びNDSラボへ向かった。


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ラボに到着すると、榊原はすでに待っていた。彼はモニターに表示されたデータを見つめながら、奈緒美を迎え入れた。


「何があったんですか?」奈緒美は焦りながら尋ねた。


「高橋が信号源を特定した。発信源は、郊外の廃工場にあると判明した。」榊原はすぐに画面を指差し、地図を表示させた。「この場所が、誤作動を引き起こしていた信号の発信源である可能性が極めて高い。」


「廃工場……?」奈緒美はその場所を見つめ、すぐに理解した。「誰かが意図的にその場所から信号を発信していた……?」


「その可能性が高い。」榊原は深刻な表情で続けた。「我々はすぐにその場所を調査する必要がある。もしもこれが企業によるものであるなら、彼らは真実を隠すためにあらゆる手を打ってくるだろう。」


奈緒美はその言葉を聞き、心の中で強く決意した。「私たちで真実を突き止めるしかない……」


「準備ができたら、すぐに出発する。」榊原は指示を出し、チームをまとめ始めた。


奈緒美は榊原の背中を見つめながら、自分がこれから立ち向かうであろう真実の重さを感じていた。廃工場で待ち受けるものが何であれ、彼女はその全てを明らかにする覚悟を固めた。

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