第24話 初動捜査

廃ビル前の空は、すでに朝の光が広がりつつあったが、現場周辺は重く沈んだ空気に包まれていた。警察車両の灯りがチカチカと点滅し、規制線が張られ、通行人たちは遠巻きに様子を窺っていた。その中に一台の車が静かに現場に近づいてきた。NDSラボのロゴが控えめに貼られた車が、すぐに目立たないように止まり、奈緒美がその中から姿を現した。


「遅くなってすみません、刈谷さん。」

奈緒美は落ち着いた声で言い、現場に目を走らせた。彼女はすぐに現場の異常な静けさを察し、通常の犯罪現場とは違う何かがここにはあると直感した。


「気にするな、奈緒美。まだ始まったばかりだ。」

刈谷は奈緒美を迎え、彼女を現場の中心に導いた。「これが被害者だ。外傷は見当たらないが、毛利が見つけた小さな傷が一つある。それが気になるんだ。」


「どこですか?」

奈緒美は冷静に問いながら、遺体に近づいた。遺体は静かに横たわっており、その表情はどこか安らかなものだったが、奈緒美はその顔に漂う不自然さを見逃さなかった。


「背中のここです。」毛利が指差した場所を奈緒美はじっくりと見つめた。「針か何かで刺されたような跡です。でも、出血はほとんどありません。」


奈緒美は無言で手袋を装着し、慎重に傷口を調べ始めた。彼女の目は鋭く、わずかな手がかりも見逃さない。「…非常に細い針ですね。外傷が少ないのは毒物が使われた可能性が高いということ。これが致命傷でしょう。」


刈谷は唸るように言葉を漏らした。「そんな技術、普通の人間が使いこなせるものじゃないな。」


「そうですね。」奈緒美は頷いた。「犯人は何らかの専門的な知識を持っている。これは計画的で、しかも高度な技術を持つ人物の仕業です。彼が使った毒物について調べる必要があります。」


「毒物…」毛利が考え込むように言った。「一体、何を使ったんだろう。」


「それは、検死を進めないとわからないわ。でも、何か非常に短時間で効果を発揮するものだと推測できる。」奈緒美はそう言いながら、目の前の遺体を見つめ続けた。「被害者は抵抗する間もなく命を奪われています。恐怖や痛みを感じる暇もなかったのでしょう。」


刈谷はしばらく無言で考え込み、やがて静かに言った。「奈緒美、これがもし連続殺人事件だとしたら、犯人はこの手口を繰り返すつもりかもしれない。」


「その可能性は否定できません。」奈緒美は重く答えた。「警察とラボが連携して、早急に犯人を特定しなければなりません。彼が次にどこで手を下すかは予測できませんが、何らかのパターンがあるはずです。」


「現場の状況を見て、私はそう思います。計画的で、かつ冷酷です。この犯人は、決して一度きりの犯罪をするタイプではない。次の犠牲者が出る前に止めなければなりません。」刈谷の声には決意がにじんでいた。


奈緒美はその言葉に強く頷いた。「まずは、この傷と毒物を特定することが優先です。それが手がかりとなり、犯人に繋がる何かが見つかるでしょう。」


「私たちもできる限りのサポートをする。」刈谷は奈緒美を見据えた。「この犯人を追い詰めるためには、全力を尽くす必要がある。警察とラボが一体となって、この危機に立ち向かおう。」


「もちろんです。」奈緒美は冷静な表情で答えたが、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。彼女は現場を見渡しながら、心の中で既に次の一手を考えていた。犯人の手がかりを見つけ出し、彼を追い詰めるための方法を。


その時、現場に到着した科学捜査班のメンバーが駆け寄ってきた。河合真紀が先頭に立ち、彼女もまた、事件の重大さを一目で察した様子だった。


「奈緒美さん、お久しぶりです。」河合は手早く準備を始めながら、短く挨拶した。「現場を詳しく調べてみます。指紋や残された物質の痕跡を探しましょう。」


「お願いします、河合さん。」奈緒美は頷いた。「特に毒物の痕跡が残っている可能性があります。犯人が何を使ったのか、それが重要な手がかりになるでしょう。」


「了解です。」河合はすぐに行動に移り、チームと共に細かく現場を調査し始めた。


奈緒美は再び現場に目を向け、犯人が何を考え、どのように行動したのかを頭の中で組み立てようとしていた。この場に残されたわずかな痕跡から、犯人の心理や行動パターンを読み解くことができれば、次の犠牲者を防ぐことができるかもしれない。


一方、刈谷は部下たちに指示を出し、現場の封鎖と証拠の収集を指揮していた。彼もまた、長年の経験から、この事件が一筋縄ではいかないことを理解していた。だが、その目には警察官としての使命感と、不正を許さないという強い意志が宿っていた。


「刈谷さん、遺体をラボに運び、詳しい検査を始めます。」奈緒美が静かに報告した。「検査結果が出次第、すぐに共有します。」


「頼むぞ、奈緒美。私たちの方でも、被害者の身元と過去を徹底的に洗い出す。」刈谷は答えた。「この犯人、絶対に逃がすわけにはいかない。」


「そうですね…」奈緒美はその言葉に力強く同意しながら、再び現場を見渡した。


現場の周囲には、まだ生活の始まりを告げる朝の音が遠くから聞こえていた。だが、この静寂の中に潜む不気味な気配を、誰もが感じ取っていた。犯人は、まだ影の中に隠れ、次の手を考えているに違いない。


捜査の初動が始まり、警察とラボの協力が本格化する。奈緒美は心の中で決意を新たにし、すぐにラボへと向かう準備を始めた。次の犠牲者を出さないために、彼女の科学的洞察力が試される時が来た。


---


NDSラボの内部は、いつも通り静寂に包まれていたが、今日は特に張り詰めた空気が漂っていた。奈緒美がラボに戻ると、すでにスタッフたちが手分けして検死やデータ分析の準備を進めていた。ラボは彼女の指示に基づいて迅速に動いており、事件の解明に向けた体制が整えられている。


「河合さん、もう一度現場の証拠を確認してください。何か見落としているかもしれません。」

奈緒美は、現場での印象が頭から離れず、再確認を河合に頼んだ。彼女は、犯人の手口に何か非常に巧妙なものを感じていた。


「了解しました。現場に戻って詳しく調査します。」河合は短く答え、すぐに行動を開始した。彼女は冷静だが、その背中には緊張感が漂っている。


奈緒美は遺体の検視を担当する中谷彩のもとに向かった。中谷は、すでに遺体の初見を終え、分析を進めているところだった。彼女の目は集中力で輝いており、全ての手がかりを逃さないという強い意志が感じられた。


「奈緒美さん、初期の検視結果が出ました。」中谷はすぐに報告した。「外傷は先ほど確認した針状の傷のみです。そこからの出血はほとんどなく、致命傷はおそらく内部での毒物反応によるものと考えられます。」


「毒物の種類はまだわからない?」奈緒美は真剣な表情で尋ねた。


「まだ特定には至っていませんが、使用された毒は非常に迅速に作用するもののようです。被害者が抵抗する暇もなく命を落としていることから、即効性の高いものが使われたと推測しています。」中谷は慎重に分析結果を見つめながら続けた。


「毒物の特定が急務ね。」奈緒美はため息をつきながら言った。「もし、これが連続殺人事件であるならば、犯人は同じ方法を使う可能性が高いわ。その手がかりが掴めれば、次の犯行を未然に防げるかもしれない。」


「他の部位も念入りに調べます。少しでも異常があれば、すぐに報告します。」中谷は真剣な眼差しで奈緒美を見つめた。


「ありがとう、彩。」奈緒美は彼女の肩を軽く叩き、信頼を込めた微笑みを見せた。「この捜査はあなたの分析が鍵になる。よろしく頼むわ。」


奈緒美はその後、ラボ内の他のメンバーにも指示を出し、犯人の特定に向けた情報収集を進めた。彼女の頭の中では、現場で感じた違和感と、これまでの分析結果が交錯していた。


「高橋さん、デジタルデータの分析はどう?」奈緒美はデジタルフォレンジック担当の高橋剛に話しかけた。


「今のところ、被害者の携帯電話やPCからの情報はほとんど得られていません。だが、被害者が最後にアクセスしたウェブサイトや、直近の通話履歴には不自然な点が見つかっています。」高橋は冷静に答えた。


「不自然な点?」奈緒美はその言葉に反応した。


「被害者は直前に、ある薬品に関するサイトを閲覧していました。それも、非常に限定された内容で、一般的には公開されていない情報です。さらに、通話履歴には匿名の発信元からの着信が複数ありましたが、いずれも短時間で切れています。」高橋はモニターを操作しながら言葉を続けた。


「その薬品の情報が、毒物に関係している可能性があるわね。」奈緒美は唸るように言った。「被害者が何かに巻き込まれていたか、もしくは彼自身が何らかの知識を持っていたかもしれない。」


「その可能性は高いです。」高橋は頷きながら、データをさらに深掘りしていた。「この情報を基に、被害者がどのような経緯で事件に巻き込まれたのか、もう少し掘り下げてみます。」


奈緒美は考え込むように目を閉じた。被害者のプロフィール、毒物の痕跡、不自然な通話履歴とウェブサイト閲覧…これらが一つに繋がったとき、犯人像が浮かび上がるはずだった。


「わかった、続けて。」奈緒美は高橋にそう言うと、刈谷に連絡を取るために自分のデスクへと向かった。


「刈谷さん、こちらも少しずつ進展があります。」電話越しに話す奈緒美の声は落ち着いていたが、その中にある焦りは隠しきれなかった。「被害者が毒物に関する特別な情報を調べていた可能性があります。さらに、匿名の電話が直前にかかってきている。犯人が直接接触していたのかもしれません。」


「そうか。そちらの進捗は頼もしいな。」刈谷はすぐに返答した。「こちらでも被害者の人間関係を洗い出しているが、まだこれといった決定的な証拠はない。だが、この線に沿って調査を進めよう。」


「被害者が何者かに狙われていたことは確実です。私たちはその動機を探り、犯人を特定するための手がかりを集めています。」奈緒美は続けた。「この事件はただの偶発的なものではない。計画的で、しかも冷酷な殺人者による犯行です。」


「その通りだ。引き続き情報を共有し合いながら、犯人を追い詰める。」刈谷の声には強い決意がこもっていた。「この犯人、絶対に逃がすわけにはいかない。」


電話を切った後、奈緒美は再びデータを見つめた。彼女は、頭の中でこの事件の全体像を組み立てようとしていた。被害者が巻き込まれた理由、犯人の動機、そして次の犯行を防ぐための方法…。


ラボの中では、次々と新たな情報が集まり、分析が進んでいた。しかし、それでもまだ全体のピースが揃っていない。犯人は巧妙であり、これまでの手口を完全に覆い隠している可能性が高い。


奈緒美は深呼吸をし、集中力を高めた。「この犯人は、次に何を狙っているのか…。彼を追い詰めるためには、私たちが一歩先を行かなければならない。」


ラボ内の緊張感は高まり続けていたが、奈緒美は冷静さを失わなかった。彼女の科学的な洞察力と、仲間たちとの連携が、この犯人を捕まえるための唯一の道だった。そして、その道は決して容易ではないと知りながらも、奈緒美は決して諦めるつもりはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る