李香、白い髪の少女の笛を聴く

第43話 そして、一年と少しが過ぎて……



 六鹿山で瀕死の重傷を負い、荘本家客人の白麗の不思議な治療により消えかけていた命を英卓が取り戻して、一年と少しが過ぎた。


 季節は廻り、いまは夏の盛りだ。


 青陵国の南に位置する慶央の街は、むせかえるような木々の緑の匂いに、せわしなく暮らす人々の汗や雑多な生活臭が混じっている。またそれに合わせるかのように、今年はとりわけ蝉がうるさく鳴く。


 この夏が終わりに近づけば、天帝の罰を受けて天上界より落とされた白い髪の少女が慶央に現れて、まる二年が経つことになる。




 十日に渡る眠りより目覚めて元気になった英卓は、荘本家の仕事を手伝って東奔西走する日々だ。


 英卓の失くした左腕となった魁堂鉄と黄徐平の二人以外に、知恵も腕もある選りすぐりの男たち七人と体格のよい馬十頭を、荘興は英卓に与えた。馬にまたがった彼ら十人は慶央の揉め事のあるところに現れ、快刀乱麻、みごとに解決する。若い英卓の実力と名声は否が応でも慶央中に知れ渡るようになった。


 腕を失くしたために空となった左袖は、毎朝、魁堂鉄の手によってきっちりと帯に挟まれる。いまでは右手だけで馬を乗りこなし、武器も剣から短槍に変えて、堂鉄と徐平を相手に鍛錬に怠りない。


 そして白麗の治療でも残ってしまった火傷の痕を隠すために、前髪を短く切って額に垂らすようになった。それがもともとの顔立ちのよさを役者のように甘く見せるので、慶央の女たちが騒ぎ立てた。


 荘本家と繋がりを持ちたい役人や豪族や豪商からの縁談も、ひっきりなしに持ち込まれている。しかし、妻を娶って身を固めたいという気は本人にさらさらなく、父親の荘康も「あれはまだ修行中の身なので」と、断り続けていた。ときおり仲間たちと息抜きに訪れる妓楼でのもてぶりは、慶央一だ。


 神の血を分け与えられた英卓は、以前の彼を知る者には首を傾げたくなるほどの、常人ばなれした元気さと活躍ぶりだった。




 しかし、白麗の回復はかなり遅かった。


 ほぼ一年を、山奥にある荘本家の湯治場で過ごさなければならなかった。神の血はその貴さゆえに、失われれば元に戻りにくいのか。それとも、名医として名高い永但州の作る薬であっても、しょせんは人の作る薬。尊い神の体にその効き目を期待してもしかたのないことなのか。


 しかしそのどちらにせよ、回復した少女は春には山を降りて、再び、荘本家の屋敷で暮らし始めた。女中の萬姜の甲斐甲斐しい世話を受け、彼女の子たちと日がな一日遊び惚ける。時には皆で慶央の街に繰り出し、物見遊山を楽しむ。


 そして、花見の宴で白麗に一目ぼれした康記もまた少女に楽しみをもたらした。


 十五歳の誕生日に彼は叔父の園剋より、黒い牡馬を贈られていた。黒輝と名づけられた気性の荒い名馬は、十五歳の子どもが乗りこなすには無理がある。鞭を使った厳しい調教で、いやいやながらに従っているのは見え見えだ。


 その黒輝を少女がいたく気に入った。黒輝を見せるといえば、少女は康記の訪れを拒むことなく、黒輝に乗せるといえば少女はどこにでもついてくる。馬でありながら、黒輝のほうもまんざらではないようだ。彼女の前では従順なよい馬となった。


 しかし何にもまして、彼女の楽しみは英卓にまとわりつくことのようにみえた。彼の帰宅を誰よりも待ち望み、その気配を感じれば仔犬のごとく駆け寄り、そして飛びつく。


 英卓も慣れたもので、少女の細い体を受け止めると片手で降りまわし、またある時は肩に抱き上げたりもした。まったく声らしい声も発しない少女が、この時だけは楽しそうに笑う。


 その笑い声に、伺い知れぬ少女の過去にもこのような兄妹としての楽しい日々があったにちがいないと想像し、涙もろい女中の萬姜はそっと目頭を拭うのだった。

 



 今では、街の人々の記憶も薄れ、白い髪の少女を探し求める荘興を『宗主さまの道楽』と揶揄したことすら、おぼえている者も少ない。「あの髪の白い美しい少女は何者か?」と問われれば、「何者と訊かれても。さて、困った。あのお人は昔から、荘本家の屋敷に住まわれていると思うが……」と答えるしかない。


 何の目的があってこの街にやってきてそしてなぜに住まうのかとの問いに応えられるのは、荘興以外にはいない。


 英卓を我が手で亡き者にしようとしたあの夜。


 銀色の光に包まれて現れた若い男の神は、「それで、このあとはどうなる?」と訊いた荘興に答えて言った。「あとは、目覚めた英卓に任せろ。天帝より受けた罰として、この下界で白麗は探しものをしている。それを見つけるには、英卓の力がいる」と。


――神の手の平の上で、自分は踊っている存在にすぎなかったのか。それは旅の老僧・周壱に出会ったときから始まったのか。それとも十五歳のときに慶央を出奔したときに始まったのか。それとも、関叔父貴がよく口にするように、すべては天命なのか――


 あの夜以来、彼は自身の人生を達観するようになった。

 考えても答えの出ない問いに囚われるよりも、彼にはしなくてはならないことがある。


 毒蛇・園剋を排除しなければならない。


 今は多くの手下を失っておとなしくしているが、悪だくみを考えつくことについては彼は常軌を逸している。このまま生かしておくわけにはいかない。しかし彼は荘興の正妻と康記をその手中に収めている。いずれ殺すにしても、その時期と手段には慎重さが求められる。


 そして英卓が戻ってきた今、長年の悲願であった安陽進出を実行するときでもある。安陽の王族や貴族や大臣や将軍たちとの交流は、これからの荘本家の発展には欠かせない。長男の健敬に慶央は任せるとして、英卓と康記のどちらを安陽に行かせるか。これもまた慎重に考えなければならないことだ。


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