第47話 李香、笛の音に過ぎし日を思う
目の前に立つ白い髪の少女が吹く笛の音と、それに合わせて妓女の春仙が掻き鳴らす琵琶の音の響きに、李香は身を固くしていた。
少女の吹く笛の音を初めて聴いたものは、心を揺さぶられて涙を流すという。荘本家屋敷に使いに出て、たまたまその音を耳にした下働き者たちが呆けたように口々に褒めそやしていた。それを聞くたびに彼女は信じがたく、そしていまいましく思ったものだ。
五十年に満たぬ人生ではあるが、この世の中で天国も地獄も見た。
豪商の娘として何不自由なく育ち、十五歳の時に荘興と出会い、三年後に彼のもとに嫁いだ。ほどなく身ごもり、愛する夫に男の子を授けた。あの時の誇らしかったことよ。あれこそが天国だった。
しかし産後の肥立ちがすぐれず夫を遠ざけると、彼は妻の我がままを優しく受け入れた。それを〈愛〉だと思った自分はなんと若かったことだろう。高価で壊れやすい置き物のように彼女は扱われた。それは幸せなのか、不幸せなのか。笑うべきことなのか、泣くべきことなのか。
慶央城郭内の豪奢な邸宅と美しい着物と従順な使用人。
当たり前のようにそういうものに囲まれていると、夫には自分に代わる女などいくらでもいるのだと認めるのに、十年もかかったのだ。
そんな時に、剋が彼女を頼って泗水からやってきた。
まだ臍の緒がついた状態で、妾宅から父が連れ帰ってきた腹違いの弟だ。彼の母親は、その身分を口にするのも憚られるような卑しい女だった。
剋はよい顔立ちをして人並み外れて賢くはあった。しかし人の心というものを生まれたときに、母親の胎内に置き忘れてきたらしい。彼は感情のままに揺れ動く心を持て余すこともなかったが、人の細やかな情というものも理解できない。幼さが抜けるにしたがって、その人とは違う欠点を補う術を彼は身につけた。それは言い知れぬ恐怖で人を支配するというものだ。
その剋がなぜか李香に懐いた。
誰かに頼らねば生きてはいけぬと、幼いながらも人ではない本能で嗅ぎとったのか。何不自由なく育った李香は世間知らずで何ごとにも鷹揚であったから、そこにつけこまれたのか。
剋が陰で毒蛇と呼ばれていることを知った時、蛇に睨まれて動けなくなった蛙を彼女は想像した。まさに自分の姿だと思った。荘興に嫁ぐことが決まり泗水を離れられると知って、ほっとしたものだ。
しかし慶央暮しも十年が過ぎようかという時に、大人の男となりますます狡猾となった彼がやってきた。あの日が、李香にとって地獄の始まりだ。
夫に顧みられない女と、他人と情を交わせない男が、姉弟の関係をこえて男女の過ちを犯すのに時はかからなかった。ぽっかりと空いていた李香の心の穴を剋が埋めたのだ。
彼女が罪の深さに慄いたのも事実で、そのために久しく途絶えていた夫との関係を再び求めた。夫か弟かどちらの子かわからぬものを身ごもった時、天罰が下ると信じて疑わなかった。自分は必ず出産で赤子とともに命を落とすだろう。
しかし康記を無事に産み落とした。そして誰かの支えがなければ歩けない体になりながらも、永医師の手厚い治療でいまだ命を繋いでいる。
その日より思う。
一人で歩くことさえままならぬ自分の命に意味があるのかと。罪深い自分を生き長らえさせることによって、天は自分に何を求めているのかと……。
静かにそして穏やかに始まった白麗の笛の音だった。
それは李香の幸せだった幼少の頃の思い出と重なった。
しばらくして琵琶が遠慮がちに追奏し、やがて笛の音は華やかになる。
それは若かった夫を初めて見たときの羞恥と胸の高鳴りか……。
やがて笛と琵琶の音が一体となって絡まったときに、李香は凝り固まっていた体と心が溶けるように柔らかくなっていることに気づいた。
――すべてを忘れて、しばし、笛の音にすべてを委ねよう――
一陣の夏風が天上に湧きおこった。それは渦巻きながら地に降りてきて、緑深い木々の葉をざわめかせ、池の水面に白い波紋を描き、部屋の中に吹き込んできた。濡れ縁の庇に掛けられている簾が揺れる。飾り紐の先に下げられている紅玉がかすかに鳴る。
――ああ、なんということであろうか。風すらもこのおなごの笛の音に聴き入っているのか――
白麗の吹く笛の音と春仙の琵琶の音に誘われて夢と
優しくときに激しく絡み合った琵琶の音が退いて、笛の音も終わりに向かって静まりつつある。その音は李香の耳の奥で余韻となり言葉となった。
意味のない命など、この世に一つとしてあろうものか。
意味のない命など、この世に一つとしてあろうものか。
……。
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