第46話 李香、白麗を招く
「これはまあ、なんと、噂にたがわぬ可愛らしいおなごであるな」
夫の荘興が荘本家屋敷内に住まわせているという髪の白い少女を初めて見て李香は言った。
病を得て久しい彼女は、慶央城郭内にある荘家の本宅で、長年、寝たり起きたりの日々だ。すでに一人で歩くこともむづかしい身で、座敷の奥に設えた寝椅子に体を横たえて、厚く重ねた褥のうえに上半身だけを起こしている。
今年は暑くそして雨の少ない夏だった。
慶央の街の南には江長川が茶色い水を湛えて悠々と流れてはいたが、城郭内に住む者たちは毎日の生活用水の工面に苦労していた。しかし、李香の目の前に広がる庭には、通り雨が降ったかのように濡れている。
中天にさしかかるにはまだ間のある陽を受けて、小舟の浮かぶ池の水面もきらきらとまぶしく輝いていた。庭を埋め尽くす木々は、風さえも染めるほどに緑が深く濃い。病弱な妻を慰めるための贅を凝らした荘興の心づかいだ。
彼女の横には腹違いの弟・園剋と息子の康記、医師の永但州が並んで座っていた。
永但州は李香の長年の侍医だ。
毒蛇・園剋の巣に白麗を送り込む。しかし、ものものしくも武装した男たちを警護に配することはできない。予測出来ない事態があっても、永但州であれば知恵でうまく立ち回り、その場を収めることができるだろうという荘興の計らいだ。
庭を背にして髪の白い少女が立ち、その少女を挟んで女中の萬姜と琵琶を横に置いた春仙が平伏していた。そして春仙についている見習い妓女の春兎は、部屋に入ることは叶わず濡れ縁の端でその身を潜めている。
彼らを見まわして李香は思う。
――ここに居並ぶ者たち誰もが、わたしがこの髪の白いおなごを見るのは初めてだと思っているに違いない。しかし、わたしはこのおなごをよく知っている。このおなごはわたしが嫁ぐ前から、すでに夫の心に住みついていた。夫が小さな口入れ屋から荘本家を立ちあげここまで大きくしたのは、このおなごを探すためだ。愚か者と世間の人々に指さされながら、このおなごの噂を求めて夫が東奔西走していた日々、わたしは振り返ってももらえぬ妻として夫の傍らにいた――
今日のために彼女は慶央一の老舗といわれている彩楽堂に、夏らしく涼やかな杏色の紗の着物を作らせて、少女のもとに届けさせていた。
人に平伏することを知らぬ少女はそれを纏って立っている。
紗の着物の下に重ねた白い着物と帯が透けて見える。白い髪は肩に届かぬ短さで切り揃えられていて、緑濃い庭からときおり吹いてくる夏風に、その毛先がふわりと舞う。
大輪の牡丹の蕾が綻び始めたかのような風情だ。固く重なり合った花弁の中の黄色い花芯を見せるのも、そう遠い話ではない。まさにそのように期待させる可憐さだ。天女という噂もなるほどと思えるほどに、目の前に立つ少女は李香の想像をはるかに超えて美しかった。
――これでは、夫が、康記が心を奪われるのもしかたがない――
そしてまた彼女は思った。
――このように美しい者は、その心も純粋で無垢なのか?――
少女は立ったままだ。
人の言葉を理解するのがむづかしくまた自らも喋ることも出来ないので、無作法は大目に見るようにと夫に言われている。少女は立ったまま、横にひれ伏している春仙を見下ろしていた。なぜに春仙が琵琶を横に置いて伏しているのか、不思議でならない様子だ。癇癪を起す寸前のようにも見える。
――これはこれは……。苦労して手に入れたものの、さぞかし夫も手を焼いているに違いない。そしてまた、どのように惚れていても、康記が手なづけるのも至難の業――
自覚のないままに上がった口角に、自分の思いつきに微笑んでいたと李香は気づいた。少女を見れば、恨みがましい言葉の一つや二つ、口をついて出てくるものだと思った。まさか、微笑むとは。
医師の永但州が目ざとく彼女の微笑みに気づいて、不思議なものを見たという顔をする。
笛の音が聴きたいのは事実であっても、少女は荘興がいずれ妻にと望んでおり、ましてや春仙は馴染みの妓女でもある。李香の胸の内を思えば、微笑むなど考えられないことだ。それから彼は李香から視線を移して、園剋の表情をうかがった。蛇の面を張りつけたようなその顔に、人の豊かな表情を彼に期待しても無駄だと知る。
この腹違いの弟に、「康記と白麗の仲を取り持って欲しい」と李香は頼まれている。理由は訊ねなくともわかっている。自分が死んだあとを心配している。「康記とともに安陽に行くしか、おれの残された道はない」とも彼は言った。
――人にひれ伏すことも知らないこのおなごを、弟は思いのままに操れるのか? 人を恐怖で支配する方法しか弟は知らない――
李香は微笑みを浮かべたまま口を開いた。
「どうやら、堅苦しい挨拶は無用のようですね。では、百薬よりも病に効くという笛の音を聴かせてもらいましょう」
その言葉に顔を上げた春仙が自分を見下ろしている白麗に言う。
「白麗さま。奥さまより笛の音のご所望がございました。曲想はお任せいたします。白麗さまの笛の音に、わたくしの琵琶も喜んでついて参ることでしょう」
春仙の言葉は理解できたようだ。にっこりと笑った少女は体の向きを変えると、今度はその金茶色の目でひたと寝椅子に横たわった李香を見つめた。
――なんと! このおなごは人の心を読むのか?――
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