第45話 毒蛇・園剋、荘本家に現れる


 遠乗りから戻って来た荘本家に漂う怪しい雰囲気にいちはやく気づいたのは、黒輝だった。今まで軽やかだった足並みが乱れる。門番が駆け寄って来て黒輝のくつわを取りなだめると、康記を見上げて言う。


「本宅より、園さまがお見えです」


 叔父がなぜ来ているのか、訊かなくても康記にはわかった。

 一年以内に白麗の身も心も奪えと言われてより、その期限はもうすぐだ。甥が本当に白麗の心を捉えているか、その目で確かめに来たのだろう。本宅に居てあれこれと気をもみながら考えていても埒が明かないと思ったに違いない。


 門を潜り抜け黒輝を進めると、そこには心配顔で待っている白麗付きの女中・萬姜だけでなく、意外なことに英卓と魁堂鉄と黄徐平までもがいた。いつもは数歩下がってその気配を消して英卓に従っている二人が、殺気を隠すことなく英卓の前に壁となって立っている。


 本宅で母の李香に甘やかされて育った康記だが、多少の武芸の心得はある。彼らが主人の英卓を守るために隙を見せることなく立っているということは、馬上からでも見抜けた。


 二人が間合いを保ちつつ見つめている先に立っているのは、園剋だ。猛者たちにこれほどまでの緊張を強いるとは。それほどのことが叔父と英卓の間にあったのか。六鹿山での出来事を何も知らない康記には思いもつかない。


「これはこれは、いつ見ても、白麗さまは天女のごとくお美しく愛らしいことでございますな。康記との遠出は楽しまれましたか?」


 顔面に毒蛇には似合わない笑みをはりつけて、馬から降りる少女に手を貸そうと園剋が近づいてきた。彼の両手が差し出される。少女は腰にまわされていた康記の手を振りほどくと、体を傾けた。


「叔父上、失礼する!」


 背後で声がしたと同時に、肩先を思い切り突かれて園剋はよろめいた。堂鉄と徐平の陰に隠れているとばかり思っていた若者の大きな背中が、彼と白麗の間に立ちはだかった。


 同時に、白麗が黒輝の高い背より身をひるがえして跳ぶ。英卓はそのような白麗の期待に応えた。両手を首にまわしてぶら下がった彼女を、彼は右手一本で抱きかかえた。それを喜ぶ少女を乱暴に振り回してもっと喜ばせたあと、少女を立たせた。


 そして空いた右手で黒輝の首筋を優しく撫でながら言う。

「黒輝、おまえは惚れ惚れするよい馬だな」


 気性の荒い黒輝は人が馴れ馴れしく触れるのを嫌う。しかし、英卓の賛辞は素直に受け取ることにしたようだ。逞しくも優雅な黒い首を誇らしげに伸ばした。英卓はもう一度その首筋を軽く撫でる。


 馬のその有様が気に入らなかった康記が乱暴に手綱をひっぱったが、馬はそれには従おうとはしない。それを見て、短く切って垂らした前髪の下の目を細めて、英卓はニヤリと笑った。正妻の子ではないということで康記に陰湿にいじめられていた子どものころの暗い影は、その顔にはない。


「叔父上、またお会いできる日を楽しみにしております」


 白麗を横に連れた英卓は園剋に一礼し、踵を返す。そのあとに殺気を解いた堂鉄と徐平とおろおろするばかりの萬姜が続く。門番たちも持ち場に帰り、園剋と康記だけが取り残された。


「叔父上。わざわざの出迎え、申し訳ございません」

「おまえを迎えに来たのではない。荘興に用があった」


 そう答えた園剋の渋面に、自分が叔父の期待に応えていないことを康記はいやでも知るしかない。




※ ※ ※


 その夜、荘興は執務室に女中の萬姜を招き入れた。


「おまえを呼んだのは、他でもない。白麗さまのことで折り入って頼みたいことがある」


「宗主さまとお嬢さまのお役に立つことでしたら、いかようなことでも尽力いたします」


「そのように肩肘張るようなことを頼むわけではない。以前から、本宅の李香が白麗さまの笛の音を聴きたいとは言っていたのだが。今日のこと、園剋叔父が直々にその意向を伝えに来た。白麗さまもお元気になられている。断り続ける理由もないだろう」


「それはよいことに思います。お嬢さまの笛の音をお聴きになれば、臥せっておられる奥さまの気も晴れることでございましょう」


「そう言ってくれるとありがたい。だが、ことが簡単に運ばぬ困ったことが一つある。それでお前を呼んだのだが……」


 荘興の顔がその困ったことに曇る。しかし曇った表情の奥に、それを楽しんでいる様子もまた見てとれる。釣られて萬姜も口元を袖で隠して笑った。


「さようでございます。本当に困ったことが一つ……」


「その通りだ、萬姜。白麗さまは自ら気が向かぬと、笛を吹いてくださらぬ。そのうえに言葉が不自由でもあられる。本宅におもむいて李香のために笛を吹くということをいかようにして納得していただくか。これは難問題だ」


 主人の期待に応えようと、その豊満な胸に両手を当てて萬姜は考え込んだ。しばらくして顔を上げたとき、彼女の丸い目が明るく輝いていた。


「宗主さま、名案がございます。春仙さまに手伝っていただいては? 昨年の花見の宴より、お嬢さまは春仙さまの琵琶の音が気に入られています。春仙さまの琵琶と弾き合わせができるとお知りになれば、お嬢さまは喜んでご本宅におもむかれることでしょう」


「おお、さすが萬姜だ。よいところに気づいた。春仙にはわしから頼むことにする。日が決まれば知らせる」


 そして畏まる萬姜に荘興は言葉を続けた。

「この屋敷を抜け出した白麗さまがおまえたち母子と出会ってより、はや二年となるのか?」


「はい、さようにございます。あの時は、鬼子母神さまの参道で、母子ともども餓死をも覚悟いたしておりました。お嬢さまのご恩をいっときも忘れたことはございません」


「月日の流れは誰にも止めることは出来ぬ」


 その後、二人の間にしばしの沈黙があったのは、それぞれの胸の内で去来する二年間の出来事に思いを馳せていたからだ。それは二人にとって不愉快な沈黙ではなかった。


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