第44話 康記、白麗を馬に乗せる
馬は落ち着きなく前足で地面を搔いている。白い髪の少女を乗せる喜びにじっとしていられないのだ。白い髪の少女は十六歳の康記の心も虜にしているが、四本足の獣の心もまた奪っている。
白麗を遠出に誘う支度をしていた康記を呼び止めて、今朝も園剋はいつもの言葉を言った。
「どのような手段を使ってもよい。あの白い髪のおなごの身も心もおまえのものにせよ。それも一年以内にだぞ」
花見の宴の満座の席で、園剋は白麗に恥をかかされている。恨みがあると思っていたので、その言葉を初めて聞かされたときは意外でしかなかった。
「叔父上さま、なぜに?」
「荘興が安陽に進出することを決めたことぐらいは、おまえも知っているだろう。一年後には、荘興は三人の息子のうちの誰かを安陽に行かせると言っている。健敬と英卓とおまえのうちの誰かだ。まあ、健敬ということはないであろうから、英卓とおまえのどちらかとなる。しかしだな、安陽に行く息子は絶対におまえでなければならない」
「おれに安陽に行けと言われるのですか?」
「おまえ一人ではない。おまえとおれだ。我々二人は安陽に行かねばならぬのだ。なぜなら、もし李香さまが亡くなれば、李香さまの弟でしかないおれにはこの慶央では生きる場所がなくなる。それはおまえにも言えることだ。いずれ健敬の子たちが成長し、妻を娶った英卓にも子が出来れば、おまえの立場とて安泰ではない」
感情を露わにすることは滅多になかった叔父が、この最近、苛立ちを隠そうとしなくなった。それは五年ぶりに帰って来た兄の英卓に関係しているのだろうということは、康記にもわかる。しかしその理由を聞いても、叔父は舌打ちをするだけで答えてはくれない。
「どうした、あの髪の白いおなごが嫌いなのか?」
今度は、園剋が訊く。
「あっ、いいえ……。おれと白麗と安陽がどうように結びつくのか、おれにはわからなくて……」
白麗という名を聞き白麗という名を口にするだけで、喉の渇きをおぼえる。これが女を恋しく思うということなのか。すでに女の体は知っている。そのために費やす金子にも不自由したことはない。そのために、この世の中のことはなんでもわかっているつもりでいた。しかしそうではなかった。恋すら知らなかったし、いま叔父の言う言葉の意味すら見当がつない。
――自分の知っている世界は、すべて叔父上に与えられたものばかりで形作られている――
いなさらながらに気づいたことに、彼は目を伏せる。だが、康記のとまどいには関心のない園剋は言葉を続けた。
「おまえのものになったあのおなごが安陽行きを望めば、荘康も許すしかない。荘康も男だ。他の男のものとなったあのおなごを手元に置くことは、沽券にかかわるだろう。そのうえにその男が自分の息子とあってはなおさらのこと。だが、一筋縄ではいかぬぞ。わかっているようでわかっていない。わかっていないようでわかっている。言葉は喋れなくとも、あのおなごはそういう女だ」
珍しく叔父は饒舌だ。そして初めて見る焦りだ。
「しかし、叔父上。白麗は英卓兄に心を奪われている様子です」
伏せていた顔を上げて、康記はすがるような目で園剋を見た。背だけはひょろひょろと高くなったが、まだまだその心は世間知らずな子どもだ。
「案ずることはない。英卓には片腕がなく、顔には醜い火傷の痕もある。あのおなごも若い女であることには間違いない。そのうちに目が覚めるだろう。あとのことはこのおれに任せて、おまえは白麗の気を惹くことだけを考えるのだ」
荘本家屋敷を出て半刻、白麗を前に乗せて康記は黒輝をはやらすことなく歩を進ませてた。
江長川へと注ぐ支流の川沿い。周りに広がる緑色の田の上をときおり吹きわたる風に、一瞬だが汗がひく。ゆったりと流れる青い水面に水鳥が泳ぎ、小舟を浮かべた漁師がのどかに投網を打つ。供の五騎は少し離れて後ろにいる。
「白麗、おまえも安陽に行きたいか?」
彼の呟きは供の者たちにも聞こえていないが、少女の耳にも届いていない。少女は黒輝の背中で揺れる楽しさに夢中だ。それに応じる黒輝の足取りも軽やかで誇らしげでもある。
「おれか? もちろん安陽に行きたいと思っている。白麗、おまえだけに話すが、おれは慶央が嫌いだ」
誰も聞いていない安心感は康記を饒舌にした。
「ご自分の病気を理由に、おれを甘やかして育てた母上も嫌いだ。母上はおれが可愛いのではない。父上と荘本家の生業が嫌いなのだ。その母上におれを押しつけて、まったく何も言わぬ父上も嫌いだ。そして、叔父上……」
あの日、午睡から覚めた彼は七歳になっていたかどうか。傍らに誰もいなことを心細く思うほどには幼く、隣の部屋でひそひそと語られていた使用人の言葉を理解できるほどには大人びていた。当時は使用人の誰もが彼の顔を見ると言っていた。
「お忙しい宗主さまはめったにこちらには来られません。それゆえに、園剋さまはお坊ちゃまのお父上のようでございますね」
だから自分も聞いたことをそのまま話したのだ。
「叔父上は、本当の父上なのですか?」
数日後、ひそひそと語らっていた使用人の二人が死んだ。その遺体は、見るのも無残なほどに切り刻まれていたということだ。
「父上も母上も叔父上もそして慶央も、おれは嫌いだ。大嫌いだ。大嫌いなものを全部捨てて、白麗、おれはおまえと二人で安陽に行きたい。」
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