第48話 李香、白麗と春仙を自室に誘う
「白麗と笛と春仙の琵琶の音に、感服しました」
李香の言葉に、演奏を終えて平伏していた春仙が顔をあげる。彼女は白麗を見上げて、優しい声でゆっくりと語りかけた。
「白麗さま、みごとな笛の音でございました。奥さまもお褒めにございます」
しかし、春仙の言葉をさえぎって李香が言う。
「春仙、気を遣わなくともよいのです。白麗さまが人の言葉を話すことができないことは、夫より聞いています。さて、二人に褒美を取らせようと思うのですが。ここで話すには、この部屋は少々広すぎますね。わたしの自室に冷たい水菓子を用意させれば、皆で、そちらに移りましょう」
その言葉に、春仙が慌てて再び平伏した。
「いえ、奥さま。わたくしは奥さまのお言葉だけで十分でございます。わたくしのように身分卑しきものが、奥さまの部屋に入るなど、とんでもないことです」
「春仙。おまえが美しいおなごだとは聞いていたが、そのうえに賢く心根も優しいことはよくわかりました」
そして永医師に向かうと彼女は言葉を続けた。
「永先生。この春仙であれば、わたくしの死後、夫を安心して任せられるというものです」
驚いた春仙が返す言葉もなく、床につくほどに頭を深く下げた。永但州もまた口を開きかけたが、李香は片手をかすかに横に振った。
「自分の寿命はわかっています。わたくしはもう長くありません」
今まで白麗に見とれていた康記が母の言葉に叫ぶ。
「母上さま! そのようなことを言われてはなりません!」
「康記、取り乱してはなりませんよ。生を受けたものが死ぬのは、この世の不変の定めです。わたくしは死など怖れてはいません。おまえのことだけが気がかりで、無様に生にしがみついていました。しかしいま、白麗さまの笛の音がわたくしに最期に為すべきことを教えてくれました」
頬骨が浮くほどに痩せ細り、化粧でも顔色の悪さを隠しきれていない李香が、悟った者だけが見せる輝きに包まれていた。再び視線を春仙に戻すと、彼女は言った。
「春仙、見てのとおり、わたくしは一人では歩くことすら叶わぬ身です。すまぬが、支えて欲しい」
「奥さまのお言葉通りに……」
「わたくしの可愛い康記。おまえも白麗さまの手を取って、案内してさしあげなさい。では、永先生、参りましょう。そうそう、萬姜とやらも一緒に」
その言葉に、当然のごとく園剋も腰をあげようとした。
その弟の顔を李香は静かに見つめる。そして微かな笑みを浮かべた。今日はなぜかよく口角が上がる日だ。引き上げた唇の感触が懐かしくも嬉しい。
「剋、おまえは来なくてもいいのです。おまえに笛や琵琶の音の美しさは理解できないでしょう。そのような者に一緒に来られては、おまえも退屈であろうし、こちらも興を削がれるというもの」
園剋は腰を浮かしたまま固まった。
人の心を持たぬ彼が、それでも微笑む姉の顔を見つめて、その下にある心を読み取ろうとする。
――いったい姉に何が起きたのか?――
穴のあくほどに見つめても、蛇にはその答えはわからない。しかしこの瞬間、いままでしっかりと掴んでいたと信じて疑わなかった何かが、彼の両手からするりと抜け落ちたのは確かだ。
永医師と春仙に両側から体を支えられ、長い廊下をゆっくりと歩を進めながら李香は言った。
「永先生、噂は本当でありましたね」
「はて、噂とは?」
くすくすと李香が笑う。
「白麗さまの笛の音は、先生の調合されるお薬よりもはるかにわたくしの体に効きましたよ。この不自由な体を、いえ、頑なに凝り固まった心を……。このように軽く感じるのは本当に久しぶりです」
明るい声で永医師も答える。
「李香さん、それはよいことだ。いまの言葉を興が聞けばさぞ喜ぶことだろう」
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