※ 第三章 ※

荘英卓、慶央に帰還する

第37話 白麗、英卓に不思議な治療を施す



 白い髪の少女は寝台の横に座って寝具をめくり、そして昏々と眠る英卓の寝衣の前をはだけた。


 あらわになった男の胸に傾けた頭を載せる。

 心の臓の音を聴いているらしい。


 やがて体を起こすと、次は傷の一つ一つを調べ始めた。その手慣れた動きと切断された腕の切り口を見てもまったく動揺しない様子に、まわりをとりかこんだ者たちは声一つあげることができない。


 寝台の横の卓には、永但州が英卓に飲ませようと何度も試みた煎じ薬を満たした椀が置いてある。少女は椀を持つと、ほんの一口それを含んだ。しかし、あまりにも苦かったようだ。


 少女の椀を持った手が宙に止まり、可愛らしい顔がしかめっ面となった。

 こういう時でなかったら、周りから遠慮のない笑いが起き、永医師も軽口のひとつくらい飛ばしたことだろう。


「それは麻黄を煎じた熱さましだ。あと、化膿を止める芍薬と甘草……」


 少女はその言葉に顔をしかめたまま頷く。そして、再び煎じ薬を口に含むとゆっくりと立ち上がり、英卓に覆いかぶさった。少女は肩肘で傾けた体をささえると、もう一方の手を若者の頬にそえた。そして彼の口に自分の口を重ねる。


――口移しで、煎じ薬を飲ませようとしているのか? だが、苦痛であのように歯を食いしばっていては、しょせん、無駄な試みだ――


 しかし永医師の思惑は外れた。少女はどのような方法で、食いしばった歯をこじ開けることができたのか。かすかに英卓の喉仏が動く。同時に、今まで死人のように投げ出されていた彼の右手もまたぴくりと動いた。


「おっ!」

 永医師が声に出して驚き、荘興が訊ねる。

「何が起きた?」


 突然、若者の右手が跳ね上がる。それは自分の顔に覆いかぶさっていた少女の白い髪をつかんだ。血と泥に汚れた大きな手が、少女の短い髪をひき抜かんばかりに握りしめる。


「おおうっ!」


 周りを取り囲んでいた者たちがどよめいて、一歩、詰め寄った。少女の白い髪をつかんだ英卓の手が、まるであの世からこの世に垂らされた命綱を力の限りに握りしめたように、彼らには見えたのだ。


 少女は口に含んだ煎じ薬を、英卓に与え続けた。その光景が五度繰り返されて椀は空になった。そして次に少女は水を張った手桶の上に細く白い手を差し出すと、片手に持った治療用の小さな刃物でその手の内側を切った。


 鮮血がぽたぽたと水の中に落ちる。

 血が止まると、手巾を浸す。


 薄赤色に染まった手巾で、少女は英卓の顔と傷を拭き始めた。見たことのない不思議な治療に見入っていた永医師だが、そこでやっと我に返った。


「お嬢さん、ここからは儂が代わろう。その布で、英卓の傷を拭けばよいのだな」

 荘康も言った。

「萬姜、白麗さまをお部屋に帰らせよ。ゆっくりと休んでもらうのだ」


 その言葉に従って、萬姜にうながされ部屋から出て行った少女だが、部屋から出る時に、彼女は口元を着物の袖端でそっとぬぐった。口の中からあふれ出た血で袖が赤く染まる。しかし、英卓の顔に生気が戻って来たことに気をとられて、誰もそのことに気づかなかった。




※ ※ ※


 少女の治療が朝夕の二回繰りかえされた、七日目のこと。

 朝の治療を終えた少女とともに部屋に帰った女中の萬姜が戻ってきた。


「最近、お嬢さまがとてもお疲れのご様子なのです。お食事にもほんの少し箸をつけるだけ。心配でなりません」


 その言葉に、永医師は急いで少女の部屋にやってきた。そして寝台に横たわっている少女を見て、いまさながらにその白い顔に血の気がないことに気づいた。肌の色の白い少女だったので気づかなかったのだ。


「口を開けて、この儂に見せなさい」


 初めはかたくなに拒んでいたが、永医師の気迫に負けて少女はしぶしぶといった感じで口を開く。


 少女の口の中には、血の滲んだいくつもの噛み傷がある。自らの口の中を噛み溢れ出た血を、煎じ薬に混ぜていたのだと永医師は悟った。まだ意識は戻っていないが、日々に容態がよくなっていく英卓のことばかりに気をとられていた。


「お嬢さんは、少々、口の中が傷ついているようだ。萬姜、これからのお嬢さんの食事は味付けを薄くして柔らかいものにするといい」


 そう言いながら、彼は少女の手を取って巻きつけてあった布を外す。白い肌の上に何本もの切り傷が並んでいた。


 激しい後悔の念が沸き上がって来た。

 そして、英卓の回復を喜ぶ皆の顔も思い出す。

 しかし医師として、少女の身に何が起きているか、荘興に伝えなくてはならない。




 その日の深夜、荘興は独りで英卓の病室に入った。寝顔を見下ろす。七日前とは別人のようなやすらかな寝顔だ。


 昼間、永医師は言った。


「英卓の回復は奇跡としか言いようがない。あとは目覚めるのを待つだけだ。しかし自分は医師として、いまの治療はお嬢さんの体を傷つけていることを、おまえだけには言っておく。だから、どうせよとは、儂からは言えない。親子の情というものもあるだろう」


 生まれた時、英卓は玉のように美しく元気な赤子だった。長じてからは気難しくはあったが、聡明さはその目の輝きに現れていた。妾などいらないと思ったが、あの女に子を生ませたいと願った、あの時の自分の想いは間違ってはいなかった。


 しかし今、凛々しい顔の半分は焼けただれ、そして片腕まで失った。これから生きていくのに苦労するだろう。


 父親として英卓の将来を悲観したのか。

 三十年かけて探し求めた少女の体が心配なのか。

 それとも、大切な少女の関心が息子であれ他の男に向いているという苛立ちなのか。


 それは彼自身にもわからない。

 ただ、これ以上、少女に命を削るような治療を続けさせることはできない。


 荘興は卓上においてあった小刀を手に取った。日に二度の治療のときに、白麗が自らの手を傷つけている小刀だ。それで、ひと思いに英卓の喉を割く……。

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