第36話 終りに近づく宴へのそれぞれの想い
表座敷より流れてくる笛と琵琶の音を、荘本家参謀の関景は独り執務室で聴くともなく聴いていた。
――ふん、興のやつ、巧く捌きおったな――
表座敷で繰り広げられる緊迫したやり取り、そして一つ解決するたびに緩む雰囲気。やり取りするこまごまとした声までは聞こえてはこないが、すべては開け放した窓より風に乗って伝わってくる。笛の音がするということは、荘興が上手く立ち回ったという証拠にほかならない。
彼も荘本家の重鎮として、梅見の宴に誘われるには誘われた。だが、「得体の知れない髪の白いおなごの顔を見て、何がおもしろい」と、すげなく断った。それはあの園剋にも伝わっているだろう。
荘興はおのれの歳も顧みずに孫ほどのおなごに夢中になり、すべてを長子の健敬に丸投げして、隠居を願っている。そのことにあきれ果てた関景もまた荘本家参謀の地位を放り投げて、安陽に戻ると言っている。流した噂はどのように園剋に伝わったかは確かめようがない。それでも花見の宴にのこのこやって来たところをみると、気にはなっているに違いない。
まだ二十五歳の若造だった荘興を見込んで、都・安陽での約束された将来を捨てて慶央に戻って来た。外に向かう荘興の剛とそれを後押しする関景の知。二人の相性がよかったのか、それとも運がよかったのか。荘本家三千人といわれるまで、組織は大きくなった。
三十年の間にはいろいろとあった。荘本家の活躍をおもしろくないと思う者たちから命を狙われたのも一度や二度ではない。それがいま、荘本家最大の危機は身内の中から起きようとしている、それも泗水から流れて来たたった一人の男によって。
宙を睨んでいた関景はその視線を卓上の書簡へと移した。六鹿山から早馬で届いた魁堂鉄からの文だ。そこには「我々は、英卓さまに近づきつつある。次の文は吉報」と短く書かれている。
笛を吹く少女を、春兎は睨み続けていた。
――春仙お姐さまの琵琶の音は、この慶央一、いえ、青陵国一なのに。その音に敵うものなど、誰一人としていない。化け物のような髪の白い女の吹く笛と並べられるなんて、あまりにも酷い。そしてそして、春仙お姐さまの荘興さまへの献身ぶりは、このあたしが一番よく知っている。それなのに、どこで買われてきたか拾われてきたかわからぬ子どものような女に、荘興さまの寵愛を奪われてしまうなんて。許せない、絶対に許せない――
憎しみに凝り固まった彼女の心には、美しい笛の音も届かない。そして、春兎にはもう一つ許せないことがあった。
隣に座っている康記が、先ほどより、腑抜けたように白い髪の少女に見入っている。肩を揺すろうがその手をひっぱろうが、彼の視線は春兎に戻ることはない。これが初めて知る男の心変りというものなのか。勝ち気な春兎とにとって耐え難いことだ。
康記のことで忠告ばかりする最近の春仙があれほどに疎ましかったのに。彼女の心は白い髪の少女憎しの想いで凝り固まっている。
もう一人、笛を吹く白い髪の少女を睨みつけている者がいた。園剋だ。
小川のせせらぎ・虫の音・風の音といったものに、物心ついたころから彼は心を揺さぶられたことがない。自分には喜怒哀楽の感情がないと知ったのは、何歳の時だったか。誰かが、「おまえは、人の心を持たない蛇だ」と言った。すぐさま陰惨な手を使って仕返しをしてやった。その者は命はとりとめたが、一生、口が利けない体になった。
人の心を持たない彼の関心ごとは、興味をそそられるものだけに向けられる。興味をそそられたものを追いつめる執念深さは、まさに<毒蛇>だ。追い詰めたら巻きついて締め上げて、噛みついて毒を注ぎ込む。苦しみ悶え命を落とすまで、その姿をゆっくりと眺めていたい。
その対象は荘興なのか、それともあの生意気な白い髪の少女なのか。いまだ定まってはいないが、それはどちらを先に襲うかの順番の問題だ。
ちょうどその頃の六鹿山では。
無慈悲な襲撃者と逃げ惑う人足の間を縫って、蘇悦は負傷した荘英卓の体を空井戸のある場所まで引きずってきた。
この一年、弟のように可愛がった若者の左腕には火矢が突き刺さったままで、左肩から顔の左半分に火傷している。背中も斬られているが、こちらは幸運にも傷は浅い。矢を抜き、手早く着物の袖口を斬り裂いて止血する。そして空井戸の中にその体を放り込んで、傍にあった木蓋を被せた。
その時、笛の音を聴いた気がした。
今までに聴いたこともない妙なる調べだ。どこから聴こえて来たのかと空を見上げたが、木々の枝の間から覗くそれはどこまでも青い見慣れた色だ。
――幻聴か。俺もついにここで終わるのか……――
彼は声に出して呟く。
「いや、終わってたまるものか。英卓、生きていろよ。俺も生き抜いて、必ずここから出してやる」
そう言葉に出して言えば、必ず生きて戻って来られそうな気がした。天を見上げて雄叫びを上げた彼は再び剣をかまえて、阿鼻叫喚の地獄の中に突っ込んでいく。
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