第35話 花見の宴の席に響きわたる笛の音
荘興が言う。
「義弟よ、めでたい花見の宴だ。子どもの無作法は大目に見てやってくれるとありがたいのだが」
「これは無作法で済む問題ではない。してよいこととして悪いことを、しっかりとその体に教え込まねば、このガキの将来のためにならぬと思うが……」
しかし、荘興は片手を上げて制すると、園剋を最後まで喋らせなかった。
「園剋、荘本家本宅で、康記を我が子のように慈しみ育てていること、いつもありがたく思っている」
突然の話題のふりように、園剋は解せぬとばかりに声を荒げた。
「なぜに、康記の名が出る?」
皆の目が康記に集まる。
彼はぽかんと口を開けたまま、目の前の美しい少女に見とれていた。最近、妓楼遊びを覚えた。荘本家の威光と金銭で、美しい女と言われる女は見てきたつもりでいた。だが、荘本家屋敷にこのように美しい少女が匿われていたとは。自分の名が父と叔父の会話に出ていることも、自分のことで二人が目に見えない火花を散らしていることにも、少女に見とれている彼は気づいていない。
荘興の声に苦みが混じる。
「どこの親も子を一人前にするには苦労がある。義弟よ、忙しい俺に代わって父親として康記を一人前にしてくれたおまえだ。子を育てる苦労がわかっているおまえだからこそ、嬉児を許せるのではないか。この嬉児にも親がいる」
康記の名前を出されてそのうえに醜態をさらしている状態に、園剋は引き下がらずを得なくなった。腹違いとはいえ姉の李香との不義で生まれたと噂されている康記は、毒蛇と怖れられている彼の唯一の弱点だ。いまここでその問題に触れたくはない。長く細い尻尾をずるずると引きずって、彼は本性を隠すために巣穴に戻った。
着物の裾を掴んでいた園剋の手がゆるみ、荘興が指し示した上座に立った少女は、くるりとその体の向きを変えて、そこで初めて気づいたと広い座敷を見回した。自分を見つめている多くの好奇の目に驚いたふうでもある。しかしながら、喋れないのでいっさいの言葉はなく、また頭を下げようともしない。まさしく睥睨という言葉がふさわしい。薄く紅をさした瞼の奥の金茶色の目が輝き、その様子は後宮の公主もこのようであろうかと皆に思わせた。
少女の足元で広がった着物の裾を、皺の一つもないようにと、嬉児は小さな手で撫でつけて奮闘している。幼い子の労を荘興はねぎらった。
「嬉児、本日の大役、ご苦労であったな。もう下がってよいぞ。あとで褒美を取らそう」
「はい、そうしゅちゃま。ごほうび、ありがとうございまちゅ」
嬉児はぺこりと頭を下げると満面の笑みを浮かべた。そして、今までのおしとやかさは捨てて、一目散に母たちの顔が覗く柱へと走っていった。そのしぐさに一つの危機は去ったのだと、満座の者たちからも笑い声があがる。
「さて、これで白麗さまの皆への挨拶も終わった」
荘興の言葉に、笛の音を期待していた者たちの間から不満のため息がもれる。
「そうであったな、いかようにして、白麗さまに笛を吹いていただくかだが。これが難問である……」
荘康はしばらく考え込み、足元で平伏している春仙にその視線を落として言葉を続けた。
「春仙、どうだ、頼まれてはくれないだろうか?」
春仙は顔を伏せたままで答えた。
「宗主さま、わたくしに出来ることでしたら、どのようなことでも」
「白麗さまの笛の音に、おまえの琵琶を合わせて欲しい」
春仙は驚きで顔を上げた。
「宗主さま、お嬢さまの笛に卑賎なあたしの琵琶を弾き合わせよとおっしゃられるのですか? どうか、それだけは、平にご容赦くださいませ」
「おまえの琵琶の音は慶央一、いや、青陵国一といわれている。おまえが琵琶を奏でれば、白麗さまも必ずやそれに応えて、笛を吹かれるに違いない」
春仙はもう一度「ご容赦を」と言ったが、「おまえの助けがどうしても必要だ」と荘興に重ねて願われては、妓女という立場上これ以上断ることはできない。
琵琶を手にした春仙は少女を広縁へと誘った。そこにはすでに允陶の指示で緋毛氈が敷き詰められている。
その上に少女は立つと愛笛の<朱焔>を構え、片膝立てて座った春仙は琵琶を抱く。二人のあでやかな姿に庭に咲く梅の花も霞む。春仙は少女を見上げて言った。
「お嬢さまの吹く笛は即興と、宗主さまよりお伺いしております。先に何節か奏でていただきましたら、私も琵琶で弾き合わせてまいりましょう」
言葉が不自由な少女だが、琵琶の弦を合わせ音色を確かめる春仙を見てこれから起きることを理解できたようだ。梅の香を含んだ早春の風に、白い髪をさらさらと揺らして少女が頷く。
初めはあたりの空気をかすかに震わして、ゆったりと流れ始めた白麗の笛の音だった。それに合わせて、時々、春仙の琵琶がベンベンと鳴り響く。
しかしながら、白麗も春仙もその道の名手。笛の音が速く激しくなると、春仙の撥さばきも激しさを増す。笛の音を琵琶の音は追い、そして琵琶の音を笛の音が追う。二人の心の臓の鼓動が重なるように、異なる二つの楽器の音が重なりあう。
その激しさは、岩場に繰り返し押し寄せては砕け散る波頭。
その優しさは、愛し合う男女の押して引く情愛。
その懐かしさは、戯れる幼い子らの嬌声。
少女の笛の音を初めて聴くものたちの頬を涙が伝う。
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