第32話 荘興と春仙、その胸の内に抱える悩みは同じ
「春仙、返杯を授けようぞ」
荘興の言葉と目の前に差し出された盃に、春兎の将来を憂えて心ここにあらず状態だった春仙は我に返った。妓女としての務めを忘れていたことに、彼女はうろたえ恥じらう。しかし荘興はそのことを責めることなく続けて言った。
「お互いに、若いものには苦労をするな」
そう言った彼の目も、康記と春兎の傍目も気にせず体を寄せ合って戯れている姿を見つめている。
「あたしの躾が行き届きませず、宗主さまにはさぞご不快な思いでございましょう。申し訳ございません」
春仙の手に収まった盃に酒を満たしながら、荘興が答えた。
「春仙、何を言う。康記と春兎のことは、おまえが謝るようなものではない。これは、荘本家の根深い厄介ごとだ」
昨年の夏。白い髪の少女が、藍秀と蘆信に連れられて慶央の街に来る少し前のことだ。康記の十五歳の祝いに、叔父の園剋は彼に馬と女を贈った。
馬は若い牡で、その名を<黒輝>といった。艶やかで真っ黒な毛並みも素晴らしいが、その体格のよさは格別に人の目を引く。もとは馬商人より荘興が買い求めようとしたものを、園剋が横から手を出して掠め取ったという曰くつきの馬でもある。さすがに荘興も言った。
「あの馬は体格もよいが、賢いぶん気性も荒い。康記が乗りこなすには、まだ早かろう」
「いや、荘本家の御曹司である若い康記にこそ、あの若い牡馬はふさわしい。姉もそのように言っている」
病がちで屋敷に閉じこもる日々の李香の楽しみは康記の成長だけだ。自分を恨んで臥せっている妻の名を出されては、荘興も引き下がるしかなかった。
妓女見習いの春兎を康記にあてがったのも、園剋だ。こちらは、思いとどまるようにと、園剋に春仙は伏して懇願した。
「あの子は、十五歳にもなっておりません。妓女として、まだまだ未熟者でございます。年嵩の殿方のもとで、しばらくは可愛がられながら、世の中のことをそして男と女のことを知っていくのが大切にございます」
しかし、この願いを園剋は無視した。荘興の馴染である春仙の妹分を康記に与えることが、彼のたくらみであったからだ。人が悩み苦しむことを小指の先ほどにも気にしていない、むしろ喜びとさえ思う園剋だが、その内心は焦っている。
姉・李香の命は長くない。李香が死ねば、自分が慶央に居座る理由がなくなる。その前に荘本家での康記の地位を不動のものにしておかねばならない。そのために死人が出ようと、彼の知ったことではない。いや、屍の山が築きあげられることこそが、毒蛇とあだ名される・園剋の望むところだ。
春仙の心配は的中しつつある。
生まれながらに美貌に恵まれて勝ち気で世間知らずな春兎は、降って湧いたような幸運に自分の立場を見失っている。春仙が荘興の寵愛を長く得ることが出来ているのは、妓女としての日々に積み重ねてきた研鑽があるからだ。しかしながら春仙が諭そうとも、春兎は聞く耳を持たない。
十五歳の我が儘に育てられた荘本家御曹司の康記にとって、どのように美しかろうが請われれば他の男と寝る妓女など、いっときの楽しい遊び相手でしかないのだ。男の移り気など、掃いて捨てるほどに見てきた。大きな口を開けた悲劇が待ち構えていなければよいがと、春兎のために春仙は祈ることしかできない。
芽生えた不安を心の奥底に押しやり、荘興が酒を満たした盃を春仙は掲げ持つ。そして、体をひねりその美しい顔を横に向けて口元を隠しつつ優雅な仕草で呑み干す。
「まるで甘露かと思えるような、美味しいお酒でございました。宗主さま、盃をお返しいたします」
しかし、荘興は春仙の差し出した盃をそっと押し戻した。
「春仙、遠慮はいらぬ。もう一杯、注いでやろう」
再び、盃に酒を受けながら春仙は思う。
――今日の宗主さまは、酔われたくないご様子。白麗さまのお披露目を、酒席の
美しいという噂は聞き及んではいるが、髪が白く言葉の不自由な少女とは、どのような少女であるのだろうか。しかしどのような少女であったとしても、自分は到底及ばぬのだという諦観が、彼女の胸の内に広がった。
この日、支度に慌ただしい白麗の部屋の様子を允陶が覗きに来るのは、これで何度目になることだろう。
「萬姜、白麗さまのお支度は出来たのか? お支度が整い次第、白麗さまを表座敷にお連れせよと、宗主が言われている」
そう言って允陶が部屋に入ると、気配を感じたのか、部屋の真ん中で後ろ姿を見せて立っていた少女が振り返った。
萬姜たち母子が荘本家屋敷に雇われる前に、癇癪を起して自ら短く切ってしまった白い髪が、少女の動きとともにはらりとその華奢な肩の上で広がった。その髪にはなんの飾りもなく、顔に施した化粧は、目尻に掃いた紅と唇に差した紅のみ。
裾と袖を長く引きずった燃え立つような朱色の着物を、少女は纏っていた。
――まるで、炎の中で、涼やかに立っておられるようだ――
少女の美しさに允陶は息を呑み、胸の中に湧いた想いを隠すために萬姜へと目を逸らす。目を再び少女へと戻せば、二度と目を逸らすことは出来ないだろうと彼は思った。
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