第16話 藍秀、秘密を胸に旅の目的を蘆信に語る


「姉さん、どうやら、俺たちは道に迷ったようだ。引き返したほうがいい」


 今朝、客桟・千松園を立つ時、亭主に教えられた。

 「馬車を使われないのでしたら。少し険しくはなりますが、山を抜ける近道がございます」

 しかし、こうも寂しい山道だと、自分たちは道に迷ったのではないかという不安がよぎる。


「まあ、よいではありませんか。急ぐ旅でもなし」

 のんびりした口調で藍秀が答える。


「帰路の土産話に、安陽の都でしばらく遊んで……。寄り道して、海というものを見るのもよいですねえ。旅の途中では、大きな川も湖もみましたが、それらと海は違うそうですよ。なんと水の味が塩辛いのだとか。蘆信、知っていましたか?」


 まるで肩の荷を降ろしたかのような明るい姉の口調に、蘆信の怒りは収まるどころかますますつのった。


 今朝、五年もの長旅をともにした白麗を、突然現れた五十歳にもなろうかという男に連れ去られた。それも、西華国を出立する日に、旅の無事を祈って第三皇子から拝領した剣を抜き応戦することもなく。それだけでも、目の前が暗くなるほどに腹が立つ。


 そのうえに、ここには長居は無用と宿賃を払って千松園を出ようとすると、「すでに、宗主さまから戴いております」と、あの食わせ者の亭主は言った。あのすました顔に、握りしめていた銭を投げつけてやりたかった。それとも剣で真二つに斬ってもよかったのだ。


 腹の立つことはまだ重なる。


 先ほどのこと、「この五年の間、あなたに言っていなかったことを、やっと言える日がきました」と、姉は重たい口を開いて言った。「この旅は、西華国を出る前に告げられた銀狼教の寧安上人さまのお言葉に従ったものです」


 予想だにしていなかった故国の銀狼教という言葉を聞かされて、蘆信は戸惑った。

「いったい、何の話だ?」


「五年前に西華国を出る時、銀狼さまよりのお告げの言葉を、私は寧安上人さま直々に教えていただきました。『長旅の最後に、白麗さまを託す者は、どこの誰とは言えないが、出会えば必ずわかる。そのためにも、中華大陸の東を目指して、ただひたすらに歩け』と。この旅はそのお告げに従っただけのことです。そして、今朝、私たちは白麗さまを荘さまにお引き渡しして、目的を果たしたのです」


「そんな話を信じろというのか?」


「荘さまに出会ってすぐに、お上人さまの言われたお人だということが、私にはわかりました」


 五百年昔の興国以来、銀狼教は西華国の祭祀儀礼の一切を取り仕切っている。その最上位をめんめんと引き継いできた寧安上人は、未来を見通せ、天の声も聞こえる存在なのだとか。


 西華国で生まれ育った蘆信も、銀狼教には畏敬の念を持っていた。その寧安上人のお告げが含まれた御触れに、いままで疑問を持ったことはない。しかしまさかこの旅の最後に、そのお告げが自分の身に降りかかってくるとは。


 道端の石を、蘆信は力任せに蹴った。そして剣を抜いて辺りの草を薙ぎ払う。それでも彼の心は嵐の日の水面のように激しく波立つ。


「こうなれば、慶央まで引き返して、白麗さまをとりかえすのみ。白麗さまも不安な日を過ごされているに違いない」


「心配には及びません。荘さまのお屋敷で、白麗さまはすでに新しい暮しに馴染み始めておられることでしょう」


「なんという呑気なことを」


「おまえも知っているでしょう? どのように深く激しく悲しまれても、また楽しく喜ばれても、白麗さまの想いは長く続きません。そういうお人ですから」


 確かに、言葉の不自由な美しい少女はまた、その記憶も時間の流れとともにはかなく消えるのだ。 蘆信は悪態をついた。


「白麗さまのことをそのように悪し様に言うとは。この五年の我々の絆は、そのように脆いものなのか? それとも、あの荘という男に睨まれて、姉さんは呆けたのか?」


「なんとでも言いなさい。私はおまえのように腹など立てませんよ」


 彼はまだ姉の胸の内の秘密に気づいていない。銀狼教の寧安上人が告げたことでまだ一つ、肝心なことを藍秀は弟に言っていない。


「まずは今夜の宿を探そう。それから今後のことを話し合わなくては。今回の姉さんの決断、なんと言われても、俺は承服できない」


 その時、繁みの中からばらばらと現れたものがあった。全員が武具を身に纏い、剣を提げている。剣をすでに鞘から抜き払ったものもいて、鈍く銀色の光を放っている。総勢、七人から八人。追剥や山賊の類ではないことはすぐにわかった。そう思って落ち着いて見れば、千松園の二階で見た顔がいくつかある。



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