第15話 黄徐正、名実共に千松園の亭主となる 


 荘興に茶を所望された徐正が階下に降りると、帳場では、関景があぐらをかいて座り、茶をすすっている。その横には、徐平がかしこまって、こちらは足も崩さぬ姿勢で座っていた。


 無事に務めを果たした徐平でありながら、彼にかけるべき言葉を持っていないことに、徐正は気づいた。それでとりあえずは、女房と徐高と通いの下働きの者たちに言った。


「案ずることは何も起きぬから、みんな、安心するがよい。それぞれの持ち場に戻って、各自の務めを果たせ。それから、宗主さまが茶をご所望だ。お客人も含めて、四つほど用意をせよ」


 そして、関景に挨拶をする。

「関さま、お久しぶりでございます」


 茶器を片手に持ったまま、関景は徐正の問いかけに頷いて応えた。そして、目を二階に上がる階段に向ける。顔の表情だけで、『江長の間』の様子を訊ねてくる。


「宗主さまが、何事もなくお収めになられました」

「血気盛んな若者がいると聞いたゆえに、少々ごたつくかと思ったが……」

「一瞬の一言で座を支配されるさまに、さすがと感心いたしました」


 なんの、それしきのことで、驚くことはない……、また顔の表情だけで応えて、関景は茶器を卓上に戻す。


「まあ、階上のことはやつに任せよう。それはそうと、黄よ、おまえの息子の徐平のことだ。若いが、なかなかに肝が据わっているな」


「乱暴者で手を焼いております徐平に、そのようなお褒めの言葉。今朝がたは、関さまにご迷惑をおかけしたのではありませんか?」


「謙遜するには及ばぬ。父の言葉を信じて、恐れることなく自分の信念を貫く徐平の姿は、見ていて気持ちのよいものがあった。それでだが、黄よ……」


 関景の言葉が冷たい塊となって、徐正の胸をひやりと通り過ぎ、腹の底に落ち込む。

「はい、なんでございましょう?」


「ここに来る道すがら、徐平から、荘本家で働きたいとの想いを聞かされた。徐平は、なかなかに見どころのある若者だ。わしの手元に置いて目をかけてやろうと思う。ただそれには、おまえの父親としての許しがあったほうがよい。そのように考えるのは、わしも年をとったということか」


 関景の提案に、徐正は返す言葉に詰まった。しかし、千松園の帳場を静寂が支配したのは、ほんの短い時間だった。妙なる笛の調べが、二階から流れてきた。


 白い髪の少女が吹く笛の曲は即興であるらしい。その音色に、聴くものそれぞれが胸に秘めた自分の想いを重ねる。


 それは、昔々に見た風景であったり、忘れていた思い出であったり、別れてしまった人への想いであったり……。日々の忙しない暮らしの中に閉じ込めていたそれらが、少女の吹く笛の音とともに、手を伸ばせば触れられるもののようにその姿を現す。そして、人は不覚にも頬を流れ伝う涙とともに気づくのだ。決して、それらを忘れてはいなかったのだと。


 その時、白い髪の少女の笛の音で徐正が思いを馳せたのは、この二十年、朝に夕にと眺めてきた江長川だった。


 江長川の源は、遠い西の地の果てにそびえる銀狼山脈の雪解け水を集めた小さな清流だと聞いている。時に砂礫の下にもぐり、時に地上に現れては青い草原を森を田畑を潤しながら流れ続ける。そして、青陵国・慶央の南では茶色に渦巻く大河となり、最後は海に注いで終わる。


 人の一生も江長川の流れのようなものであろうかと、彼は思った。ならば今、息子・徐平の川はどこを流れているのであろう。その流れを無理に堰き止めたところで、水は溢れ、思いもよらぬ方向へ流れて行くに違いない。


 彼の頬を涙が伝っていた。


 笛の音が余韻を持って終わると、着物の袖口で頬を拭いた徐正は居ずまいを正した。

「気の利かぬ息子ではありますが。関さま、どうか、よろしくお願いいたします。徐平よ、これからは宗主さまを父と思い、関さまを大伯父と思い、心して仕えるのだぞ」


 その言葉に頷く関景に、徐正は深く頭を下げた。その夫の丸くなった背中を、茶器をお盆に乗せた彼の女房が見つめていた。息子を失う日が来たことを悟った女の持つ盆の上で、茶器がカタカタと鳴る。




 数日後、荘興直筆の礼状とまとまった金銭が千松園に届けられた。

「恩義ある宗主さまに、当然のことをしたまで」

 徐正は言い、受け取らなかった。


 荘興もまたそれでは引き下がれない。

 そういうことを、数度、繰り返した。


 そして年の瀬も近くなったある日、関景が川魚料理を食しにやってきた。徐平も供の一人として神妙な顔でついてきていた。もう自分の息子ではないことが、徐正には辛くもありまた誇らしくもあった。


 食事も終わりに近づいた時、関景は徐正と徐高の父子を部屋に呼んだ。いつものように、料理へのお褒めの言葉をいただけるのだろうかと、二人は思った。だが、違っていた。


「年明けより、千松園の上納金を納める必要はなくなった。この千松園は、宗主より、おまえたち親子に下される。皆で力を合わせて、ますます繁栄させるがよかろう」


 実直な黄徐正は、白い髪の少女と出会ったことで、息子を一人手放した。しかし、荘興の計らいで、名実ともに千松園の亭主となった。そして、数年後、徐高は働き者の嫁を迎え、徐正もまたその手に孫を抱くこととなった。


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