第42話 蘇悦の来訪



 魁堂鉄に背負われて六鹿山を降りていく瀕死の英卓を見送ったあと、蘇悦は自身の傷の治療に専念した。そして傷が癒えると、傭兵の職を辞して彼もまた英卓の後を追うように六鹿山を降りた。


 急ぐ旅路ではない。

 目を楽しませ心を浮き立たせながらゆっくりと歩みを進める。


 山の季節は春爛漫で、木々はいっせいにもやもやと淡い緑に芽吹き、その下では草々が可憐な花を咲かせている。風流心のない蘇悦でも、その光景に思わず足を止め目を止める。二度とここに戻ってくることはないと思えば、なおさらだ。


 慶央の街にたどり着いた彼は、数日、妓楼にこもって女遊びを楽しんだ。


 英卓のその後のことが気にならないといえば嘘になる。考えたくはないが、すでに彼の葬儀は終わっていることだろう。線香の一本でも手向けるつもりではいるが、そのような辛気臭いことは、一日でも先に延ばしたかった。そんなこんなで、結局のところ、蘇悦が荘本家を訪ねたのはあの奇襲より一か月がたっていた。




 門番に名を告げただけで、屋敷内へと蘇悦は案内された。

「慶央の荘本家を訪ねて来れば、すべて話は通じるようにしておく」と、あのときの大男の言葉に偽りはなかった。


 屋敷内は明るく活気に溢れていた。この最近、葬式を出した雰囲気ではない。英卓はいまだに生死の境をさまよっているのか。

 しかしながら、すでに、歩けるほどに回復した英卓は湯治場に出立したという。


「なんと、あれほどの酷い怪我を負いながら、助かったというのか!」


 荘本家宗主の荘康とその知恵袋である関景を前にして、ひと膝乗り出した蘇悦は思わず叫んだ。前に置かれた盆に彼の膝が当たる。盆に盛られた砂金の山の一角が崩れた。英卓を救ったことで、慶央に来れば必ず渡すと言われていた謝礼の半金だ。


「すまない。驚いて、無様なところをお見せした……」


「蘇悦さん、おまえのことは堂鉄とそして英卓からも聞いている。そのうちに慶央に来るであろうから、そのときは丁寧にもてなし、約束の半金を渡して、礼を述べてくれとな。英卓の命は、蘇悦さんの機転で助かったも同然」


 老いてはいるがその顔つきにただならぬ風格を感じさせる関景は、かしこまった蘇悦を前にして破顔一笑した。


「英卓は助かったのか……」

 非礼を詫びつつも、信じられぬ思いの蘇悦は同じ言葉を呟く。

「……、しかし、しかし……。やはり信じられぬ」


「そうだ。しかし残念ながら、英卓は左腕を失った。だがこのことはそれほど案ずることではない。荘本家には、英卓の無くなった左腕の代わりを務める者はいくらでもいる」


 目覚めて自分に左腕がないと知ったときの英卓の言いざまを、関景は気に入っていた。それで彼の病状を訊かれたときは、ことあるごとに吹聴していた。


「英卓は療養のために、湯治場に行っている。『もう怪我など治った。慶央に戻る』と言って、付き添っている医師を困らせているらしい。蘇悦さんとすれ違いとなったことを知れば、あれも残念がることだろう。さあ、約束の残り半分の砂金を受け取られよ」


 もう一人の男、英卓の父である荘興が関景の言葉を引きついで言った。


――この男が、泣く子も黙ると恐れられている荘本家宗主か。そう思ってみれば、どことなく顔かたちが似ている。だがいまは、息子の回復を喜ぶ父親の顔だ――


 そこであらためて、盆の上に載せられた砂金を蘇悦は見た。半金との約束だったが、それは先に魁にもらったものより多い。しかしながら、欲が芽生えるよりも早く、蘇悦の口は動いた。


「いや、六鹿山でもらった砂金だけで、おれには十分だ。人は身のほどを知らねばならないということだ。これ以上の欲を掻くと碌なことはない」


 魁堂鉄は蘇悦の人柄について言っていた。

『蘇悦という男は、見かけは強面で、その口の利きようも乱暴。しかし英卓さまを弟のように思っていると言った言葉に偽りはなく、なかなかの男気の持ち主と思われます』


 いま、英卓の無事を喜びその怪我の状態を心配する思いが混じった男の顔を見ていると、堂鉄の言葉通りであろうと荘興は思う。


 驚いた関景が言った。

「なんと、いらぬと言うのか。そう決めたのだと言うのであれば、それもよかろう。無理強いするものでもないしな。それで、おまえはこれからどうするつもりだ?」


「そうだな、都の安陽に行って、しばらく豪勢に遊んで暮らそうかと考えている。それで金子が尽きれば、なんぞ仕事を見つけて働くつもりだ。そのような暮らしが、俺の性にはあっている」


 今度は荘興が言う。

「そうか、そこまで腹を括っているのか。実を言うと、仕事を探しているのであれば、荘本家に誘いたかったのだが、どうやら無理なようだな」


「ああ、自分のことは自分が一番よくわかっている。英卓が無事と知って、心残りはなくなった。では、そろそろ、暇させてもらう」



 蘇悦は頑として金子の類は受け取らなかったが、馬は受け取った。その馬に乗って安陽へと旅立つ彼の後ろ姿が見えなくなるまで、荘康と関景と允陶の三人は見送った。


 允陶が関景に訊く。

「関さま、荘本家にとって、惜しい男を行かせてしまったと思われているのではございませんか」

 

「家宰よ。わしはな、英卓とあの男は、いずれ安陽で再会するだろうと思っとる。わしのこういったことへの勘はよく働くのじゃよ」


 二人の会話を聞いていた荘興がふと思いついたというふうに言った。

「荘家にやっと三人の息子が揃ったのだ。これを好機ととらえて、我が荘本家もそろそろ安陽に進出することを考えてもよいかもしれんな」


 関景がぽんと手を叩いた。

「おおう、興よ。三人のうちの誰を行かせるにしても、それはよい考えだ。すべては天命じゃぞよ」

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