第52話 淫らに眠る紅天楼の裏口


 馬車が止まった。

「おい、春兎。おまえから降りろ」

 乗り込んできた男が言う。


 その言葉に、魂の抜け殻となった春兎がよろよろと立ち上がり馬車を降りる。その様子を横目で見た萬姜はますます白麗におおいかぶさった。


「お嬢さま。なにがあっても、わたしが命に替えてお助けします」


「次は、ぎゃあぎゃあとうるさいババアだ。おまえも降りろ」


 男は容赦なく萬姜の襟首をつかみ、白麗から引き離した。


 手足をばたつかせるひっくり返った亀のような格好で、萬姜は引きずりだされた。どさりと大きな音を立てて馬車から転がり落ちた彼女はあちこちをしたたかに打ち立ち上がることが出来ない。体の下の堅い石が冷たかった。真夏でも陽の射さない狭い路地に連れ込まれたようだ。


――ああ、お嬢さま、申し訳ありません。わたしが至らぬばかりに、怖い思いをさせてしまいました――


 自分を投げ出した男の背中が再び馬車の中へ消えるのを、彼女はただ見ているしかなかった。大きく馬車が揺れた。驚いた馬がいななく。


「ぎゃぁぁぁ!」


 両手で顔を押さえた男が転がりでてきた。転がった萬姜の横に並ぶ形でぶざまに尻もちをついた男の指の間から、紅い血が細い筋となって流れている。


「なんだ、あの女は!。おれの剣を奪いやがったうえに、顔に斬りつけてきやがった。まだガキだと、油断した」


 その言葉に、女をいたぶる楽しさに薄笑いをうかべていた二人の男たちが、剣を抜き払ってかまえる。同時に、奪った剣を片手に持った白い髪の少女が馬車からひらりと飛びおりた。そして男たちに向かい合ってまっすぐに立つと、両手に持ち直した剣の先を下におろし体に引きつけて構える。


 女の細い腕でも、最初の一撃は弾き返そうとする隙のない構えだ。二年の間、常に傍らにいた萬姜が初めて見る女主人の姿だ。いつもは美しく輝いている金茶色の目の色が濃くなり、黒い光を宿している。


 気圧された男の一人が唸った。

「このガキ女は、剣が使えるのか?」


 それでももう一人の男は気がまわったようで、石畳の上に転がっている萬姜にかけよると、彼女の胸元に剣の先を突きつけた。


「お嬢ちゃん、無駄なことはせずに剣は捨てたほうがいいぞ。次に動いたら、この女が串刺しだ」


 転がったままの萬姜が叫ぶ。

「お嬢さま、わたしの命など惜しくはありません。はやく、お逃げください」


「気の強いことを言うじゃないか。それほど惜しくはない命ならいただいてもいいんだぜ」


 男の剣を持つ手に力が込められた。剣の先が萬姜の着物を突き破り、胸の肉を薄く斬り裂く。胸元が赤く染まる。

「きゃぁぁぁ!」


 ガシャーン

 萬姜の叫び声に、白麗が投げ捨てた剣の音が重なる。


 石畳のうえに落ちた剣は耳障りな音をたてて、周囲の土壁にこだました。顔を斬られた男が立ちあがり捨てられた剣を拾うと、おもむろに振り上げた。腹いせに逆手にかまえた剣の柄で少女を殴りつけるつもりだ。


「おいおい、やめろ。そのガキは傷つけるなと言われているだろうが。園さまより、残りの金子がもらえなくなるぞ」


「おう、そうだったな。馬車は後はつけられてはいなかったが、荘本家のことだ、女たちをかどわかしたことはすぐにばれるに違いない。あいつらがここに気づくのもすぐだろう。命令されていることを、さっさとやってしまうに限る」


 仲間の言葉に男は手をおろした。

「そこの太った女。いつまでも転がっているんじゃねえ。立ちな」


 その時、ギギギィィィと錆びついた音がして、鉄で出来た小さなくぐり戸が開いた。中から年増の小柄な女が出てきた。


「そんな大きな音を立てられたのでは、こちらとしては、いい迷惑なんだけどね」

 釣りあがった狐目の女だが、抜けるように色白くその立ち姿はみょうに艶っぽい。いままで生気なく立っていた春兎が叫んで駆け寄る。


「おかあさん!」

 

「おやおや、春兎。怖い思いをしたんだねえ。園さまから言いつけられたおまえの仕事は、もう終わったんだよ、安心していいからね」


 そして抱きしめた春兎の背中越しに女は男たちを睨みつけると、言葉を続けた。


「もたもたするんじゃないよ。さっさと中に入っておくれ。誰かに気づかれたら、困るじゃないか。おまえたちの残りの金子は園さまからあずかっているよ」


 痛みをこらえてゆるゆると立ち上がりながら、萬姜はあたりを見回す。


――妓女見習いの春兎が、あの女をおかあさんと呼ぶということは……。紅天楼? もしかして、ここは紅天楼の裏口?――

 

 三階建ての大きな建物が路地を囲んでいる。

 けばけばしく塗り立てられ下品な装飾で飾り立てられた派手な建物だが、昼間だというのに静まりかえっている。まるで建物そのものが淫らな午睡をむさぼっているかのようだ。


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