第40話 荘英卓、爽快な気分で目覚める
十分に寝たりた朝のように爽快な気分で、英卓は十日間の眠りから目覚めた。
だが、真上に見えたものが、藁で拭いた見慣れた天井ではなく、木目も美しい板張りであることに驚く。「ここは、どこだ?」と起きあがろうとすると、肩を押されて寝台に戻された。五年ぶりに見る懐かしい顔が目の前にある。
「永先生……」
自分の発した言葉に、周囲のものが驚きの声をあげるのが聞こえた。しかし、あとの言葉は、口の中で舌がこわばって出てこない。医師の手が何かを診ているらしく顔にふれる。
「無理をするな、英卓。十日も眠り続けて、目覚めたのだ。ところで目は見えるのだな?」
当然だと頷くと、また、周囲の者たちがどよめく。英卓は頭をめぐらして、自分を取り巻く一人一人の顔を見た。
――永先生も、久しぶりに見ると、目尻の皺が増えている。ああ、父上もおられるのか。父上の髪に白いものが混じっている。関爺さま、ますます爺さまになってしまったな。あいかわらず、口煩いのか。允め、おまえの無表情で陰気な顔は変わっていない。この大男は誰だ? まるで黒牛のような巨体だ。それから、この若い男は、何を泣いているんだ?――
この場で一番若い徐平は、十日前は、英卓の命が危ないと知って泣いた。そしていまは目覚めた喜びに、涙は拭っても拭っても溢れてくる。
「宗主さま、白麗さまをお連れしました」
その声に、目覚めた英卓をとりかこんでいた者たちは振り返った。
南向きの部屋の廊下に少女は立っていた。
きらきらとした春の陽射しを背に受けて、それは後光のように輝いている。彼女が英卓に施した治療の秘密を知っている者たちは、その美しさに畏敬の念すら覚えた。
「白麗さま、英卓が目覚めた。顔をみてやってください」
「お嬢さん、はやくこちらへ」
少女の足取りがおぼつかないことを知っている荘興は少女に近づいてその手を取り、医師は笑顔で手招きする。
「お嬢ちゃん、お手柄だ。ありがたく思うぞ」
十日前には、斬って捨てようかという勢いで、少女を睨みつけた関景だった。しかしいま少女を見つめる彼の眼差しは、目の中に入れても痛くない孫娘を見るそれだ。
なにごとにも察するのに機敏な允陶は、この数日、宗主と永医師の不安を敏感に感じていた。それで少女の血の気のなさにいまさながらに気づいた。しかし彼のことであるからそれを口に出すことはない。
魁堂鉄と黄徐平にいたっては、英卓が目覚めるという奇跡を目の当たりしたうえに、少女の美しさにただただ茫然としている。
今まで自分を取り囲んで口々に喜びあっていた者たちが静まり、振り返って同じ方向に視線を向けたので、寝台に横になっていた英卓も何ごとかと首をその方向に傾けた。髪の白い少女がゆっくりとこちらに歩みよってくる。彼はその美しい姿と顔に魅せられた。
――不思議だ、ここにいる誰よりも、この少女が一番懐かしい。ずっと昔から見知っていたような気がする。しかし、それにしては、肝心の名前を思い出せないのはなぜだ?――
少女の顔をもっとよく見ようとして、彼は起き上がろうとした。しかし体が持ち上がらない。左腕のあるべき場所が心もとなく宙を掻いているようだ。火矢をまともに受けたことを思い出した。
――おれの左腕は、どうなっている?――
その時、寝台まであと数歩というところまで近づいた少女の体が崩れ落ちた。少女の頭が床に打ちつけられる前に、荘興はその体を抱きかかえた。その様子を見ながら、英卓も再び眠りに落ちた。
※ ※ ※
翌朝も、爽快な気分で目覚めた英卓だった。しかし目を開けると、昨日とは打って変わって不安を浮かべた永医師の顔がある。
――気持ちよく目覚めたときくらい、もっと違う顔が見たいものだ。絶世の美女とまでは望まないが、またまた老け顔の永先生とは――
そして寝たりた満足感と自分のくだらぬ思いにふっと笑う。覗き込んでいた医師の顔が不安から驚きの表情に変わった。
「英卓、おまえはえらく気分がよさそうだが……。しかし、目覚めたばかりのおまえに告げねばならないことがある」
医師の問いに、英卓は再び笑った。
「永先生、おれの無くなった左腕のことですか?」
「気づいていたのか?」
「永先生、そのことについては、ご心配には及びません。巷では、荘本家三千人と言われています。三千人の中には、おれの無くなった左腕の替わりを務める者くらいいるでしょう」
隣の部屋で若い徐平とともに寝ずの番をしていた魁堂鉄がすくっと立ち上がり、声をあげた。
「その務め、わたしめにお任せください。六鹿山での探索が迅速であれば、失われることはなかった英卓さまの左腕。本来では、その責めを負って、この命を差し出さねばならないところですが。宗主と英卓さまと関さまのお許しあれば、この命のある限り、英卓さまの左腕となりたく思います」
横にいた関景もまた口を挟む。
「許すも許さぬもあるものか。英卓、この男は魁堂鉄といってな、負傷したおまえを担いで六鹿山を下りた男だ。この男がおまえの左腕となるのも、天命であろう」
「魁堂鉄というのか。この命、おまえのおかげで助かったようなもの。礼を言うぞ。おまえであれば頼もしい左腕となってもらえることだろう」
いままでのやり取りを聞いていた徐平もたまらず口を挟む。
「おれも……。いえ、わたくしめも、英卓さまの左腕になります!」
「左腕は二本もいらぬとは思うが」
英卓の返答に、彼は必死で食い下がった。
「腕は多いほど、なにかと使い勝手がよいはずです!」
若すぎる徐平の切羽詰まったその言葉になごやかな笑いが起きた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます