第39話 銀狼、再び現れる


「早まるな」


 背後から若い男の声。と、同時に銀色の光が部屋の中に満ちた。


 あまりのまぶしさに荘興は目を閉じざるをえなかった。だが、振り返らなくても、何が起きたのか彼にはわかる。数か月前に彼の夢に現れ、天上界の神だと名乗り、そのうえに人を神の形を模した泥人形だと言い放った、銀狼の姿をした神が再び現れたのだ。そして、二度目となれば、これは夢ではないことも理解できる。


 閉じた目をゆっくりと開けながら、大きく長い安堵の吐息を吐く。小刀を手に取る前から、こうなることが分かっていたような気がする。

――英卓の命を絶つことは、やはり、自分にはできないのか――


 小刀を卓の上に戻して振り返った。銀狼はすでに人と同じ姿となって、彼の真後ろに立っていた。眩しい光は収まっていた。銀色の残滓が靄となって、部屋のあちこちに漂っている。部屋の中のすべてが青色の影の中に沈み、まるで星月夜のようだ。


「今夜は、一人か?」

 突然の出現に驚きもしない荘興の問いに、若い男の神もまた平然と答えた。

「ああ、弟の皇太子は置いてきた。従者に見張らせている。下界に降りてくることはない」


「それはよかった。丸焼きにされたくはない」


 前回、これは夢かと疑う荘興に対して、皇太子である小さな青龍は「炎を吐いて、ちょっと焼いてみようか」と、生意気に言った。目の前の神が形のよい唇の片端をあげて、かすかに笑う。


「ああ、邪魔者はいない。約束通り、おまえの知りたいことを、今夜は語って聞かせよう」


 しかしそのありがたい言葉にも、荘興はひれ伏す気にはなれない。安堵のあとには、胸の奥深いところからふつふつと湧き上がる怒りがある。


「語ってくれるのはよいが、その前に、こちらから訊ねるほうが先だ。あの夜に指示されたように、英卓を探し出して連れ戻った。しかし、このざまではないか」


 英卓が横たわる寝台が神にもよく見えるように、荘興は半歩体をずらした。


「七日七晩、英卓は眠ったままだ。そして血を分け与えるという治療のために、白麗さまのお体は傷つき、いまでは歩くのもおぼつかないほどに弱られている。これは、神が望んだ結果なのか?」


「望んだのかと問われれば、答えようがない。下界で起きることは、偶然のようであって偶然ではない、必然のようであって必然ではない。としか、言いようがない」


「泥人形を作ったと豪語する神の分際で、つまらぬ言い訳をするものだな」


 再び、唇の形だけで神は薄く笑う。

「言うに事欠いて、神の分際とは……。皇太子の言い分ではないが、わたしもおまえを丸焼きにしたくなってきた。だが、荘興。おまえのその肝の据わったところが気に入っているのも、事実だ。だから、英卓の父としておまえを選んだ」


 想像もしていなかった展開に、荘興はしばらく言葉を失った。やっと訊ねるべき言葉を探し当て、口にする。


「英卓の母となった女を知っているのか? あの女と神と、どのような関係がある?」


 打てば響くように答えていた神がしばし沈黙した。彼は天井を仰ぐ。


「わたしも神とはいえ、若い体を持った男だ。下界に降りてきたときに、思いがけぬ出会いというものがある。あの女はわたしの血をひいている。人の短い一生を考えれば、その血は……」

 神の視線は寝台の横においてある水を張った盥へと移る。

「……、その盥に落とした一滴の水のように薄まったが、たまたま、あの女に濃く表れた。そしておまえを父として、英卓により濃く伝わった。白麗が自分の体を傷つけてまで治療しようとするのは、天上界での記憶を失いながらも、英卓の中にわたしの存在を感じるものがあるからだ」


 すべては、神の手の上での出来事か、その上で、おれは踊っていたにすぎないのか……、胸の内にあった怒りが頂点に達した。

「それで、このあとはどうなる?」


「あとは、目覚めた英卓に任せろ。天帝より受けた罰として、この下界で白麗は探しものをしている。それを見つけるには、英卓の力がいる」

「おれは、お役御免となったわけだな」


「そのように拗ねるな。わたしはおまえが気に入っている」

 神はもう一度天井を見上げた。その額に神眼を持つという天帝を畏れたのか。それとも、弟の青龍が気になったのか。

「もうそろそろ、戻らねば。そうだな、おまえを怒らせたのであれば、いつの日にか必ず償うと約束する。その日に、また会おう」


 再び、部屋はまぶしい銀色の光に溢れた。荘興が閉じた目を開けたときには、神の姿は消えていた。




※ ※ ※


 その日から三日が過ぎた。


 寝台の上にかろうじて身を起こした少女は、永医師の処方した薬湯を飲んでいた。

 医師の説明によれば、その薬湯は体の中で滋養となり、薄くなった血を濃くするという。苦いもの辛いものを嫌う少女のために蜜を加えて甘くしている。


 女中の萬姜の娘の梨佳が一匙一匙少女の口に運び、その回数をこれも萬姜の幼い娘である嬉児が指を折って数えている。


 少女は薬湯を口にするたびに顔をしかめた。しかし、嬉児が「ひとつ、ふたつ……」とたどたどしく数えて、梨佳に優しく次をうながされれば飲みこむしかない。その様子を萬姜は不安を隠して見守っていた。


 部屋の外で人の気配がする。

 その者は我を忘れて走ってきたようで、息があがっていた。


「英卓さまがお目覚めになられました! 宗主さまが、白麗さまをお呼びです!」


 

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