第55話 紅天楼に火が放たれた!
白麗のゆくえの知らせを待つ荘興たちのもとに、同時に二つの知らせが届いた。
一つは、慶央の街に散らばっている健敬の手下からだ。
「紅天楼の裏口に、白麗さまの乗った馬車が停まっているとの情報を得ました。紅天楼に忍び込ませていた密偵に調べさせると、白い髪をした少女と太った女が……、おそらく萬姜かと思われますが、脅されながら中に連れ込まれた様子です」
そしてもう一つは……。
「荘家本宅の厩に黒輝はつながれたままで、康記さまのお姿がありません。最近の康記さまはどこへ行くのにも黒輝を伴っておられますので、不可解と言えば不可解です。そして園剋は、いまだに本宅に籠ったままで、動きはありません」
飲みかけの茶が入った茶碗が、荘興の手の中でくるりくるりと回っていた。考えごとをするときの彼の癖だ。しばらくして、その動きがぴたりと止まった。
「白麗さまと康記に災難をしかけて、毒蛇は一人で慶央より逃れるつもりだ。健敬とその配下には、このまま、慶央の街の治安に専念せよ。荘本家身内の争いごとに慶央の民を巻きこんではならない。英卓、おまえは二十騎を引き連れて、すぐさま紅天楼に向かえ。毒蛇が何をたくらんでいるかはいまだわからぬが、我々の想像を超える悪だくみであることだけは確かだ。必ずや、白麗さまと康記を救え。わしは逃げる園剋を泗水に向かう街道で待ち受け仕留める。黒輝は青陵国一足の速い名馬だ。そこで逃がせば、あとを追うのは難しい」
荘興の的確な指示に感嘆の声があがったが、それはすぐに静まった。いまはそのようなことに感心している場合ではないと、誰もが気を引き締める。
荘興は茶碗を卓上に戻すと、その体を関景に向けて言葉を続けた。
「関伯父貴、あらたまっての頼みがあります。このたびのこと、荘家の揉め事であるといっても、ことが終われば県令よりの厳しいお咎めは免れないでしょう。しかし、そのお咎めは自分一人が背負う覚悟です。自分になにかあれば健敬・英卓・康記を助けて、これからの荘本家をまとめてください」
関景が答える。
「よし、おまえの願い、しかと受け止めた。思う存分に腕を振るうがよい。興、そして皆のもの、武運を祈っているぞ」
※ ※ ※
吐き気をもよおすような異様な臭いで目を覚ますと、目を見開いた春兎の顔が目の前にあった。瞬きを忘れた尋常ではないその目の色に、萬姜の背筋が凍りつく。
春兎は血だまりの中に横たわっていた。
首筋がぱくりと割れて、そこからいまも少しずつ血が流れ出している。血だまりは、萬姜の鼻の先に達しようとしている。「あっ!」と叫び顔をそむけようとして、縛られ猿ぐつわをかまされて床に転がっている自分の姿に彼女は気がついた。
薄暗い部屋だった。
板戸の隙間から外の陽の光が筋になって漏れ入ってきていて、埃がきらきらと舞っている。首をめぐらすと、卓や椅子や屏風が積み重ねられているのが見える。ここは不要な家具などをしまっておく納戸のようだ。
春兎の横たわった体の向こうにも、血濡れた人の体がいくつか無造作に積み重ねられている。康記と白麗の手引きに関わった紅天楼のものたちか。あのキツネ目の女の骸もあるに違いない。わずかの金子を掴まされて欲に駆られたものの、殺されたのでは元も子もないことだろう。
血の臭いに交じって、何かが焼ける臭いも漂ってきた。体をねじって閂のかかった戸の下を見ると、灰色の煙が這っている。なぜ自分だけが斬り殺されなかったかを彼女は理解した。自分は焼け死ぬ運命なのだ。
死を待つために目を閉じた……。
そのとき、女のうめき声が聞こえてきた。
――生きている者がいる!――
再び目を見開いた萬姜は、積み重ねられている卓や椅子の間を芋虫のように体をくねらせて這った。美しい着物を血で汚した女が横たわっていた。しかし、傷は浅いようで、呻きながらも体が動いている。
「春仙さん、春仙さん」
呼びかける自分の声が唸り声でしかないのがもどかしい。
自分の名前を呼ぶくぐもった声で、春仙は意識を取り戻した。恐る恐る目を開けると、猿ぐつわを噛まされた萬姜の顔が目の前にある。驚いて立ち上がろうとして体に痛みが走った。
内密の話があると春兎に言われて、いぶかしく思いながらも納戸までついていった。そこで、三人の男に囲まれ春兎が斬られて、逃げようとした彼女も腕を斬られた。倒れかけた彼女の後ろ首を、もう一人の男が手刀で殴りつけてきた。気が遠くなる中で、男たちの言い合う声を聞いた。
『この馬鹿者が!この女は斬り殺してはならぬとの、園さまのお達しだろうが』
『すまん、こうなれば何人殺しても同じだと、つい、気がたかぶった』
『これで、事情を知るものの始末は終わったな。おい、火を放ちに行くぞ』
萬姜の呼びかけに、意識が戻って来た春仙が言う。
「まあ、萬姜さん。どうしてこのようなところへ?」
斬られた傷の痛みに耐えながら、春仙は萬姜の猿ぐつわと体を縛った縄を解く。口が利けるようになり、体が自由に動かせるようになった萬姜は春仙にすがりついた。
「お嬢さまが。お嬢さまが、大変なことに!」
「萬姜さん、落ちつくのです。白麗さまはどちらのお部屋に?」
春仙に訊かれて、萬姜は言葉に詰まった。たくさんの階段を上って下りて廊下を右に曲がり左に曲がったことは覚えているが、改めてどの部屋と訊かれると答えられない。
萬姜を勇気づけるように春仙が微笑む。
「萬姜さん、お嬢さまは大丈夫です。お嬢さまはそういう不思議な運に恵まれたお人だと、お嬢さまの吹く笛の音に琵琶の音を合わしていたわたしにはわかるのです。さあ、火が回らぬうちに、わたしたちも逃げましょう!」
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