第56話 荘英卓、白麗を助ける
総勢二十騎を率いた荘英卓が紅天楼に駆けつけたとき、雲一つない真夏の青い空に向かって、薄灰色の煙が幾筋か立ち昇っていた。
「火事だ、火事だ。紅天楼から火が出ているぞ」
「逃げろ、逃げろ!」
「いや、火を消すのが先だ!」
「なんと、荘本家の英卓さまが助けに来てくださったぞ!」
「道を空けろ! 英卓さまをお通しするんだ!」
紅天楼から飛び出してきた者たちや、たまたま往来を歩いていた者たちが、右往左往しながら口々に叫ぶ。その中の一人が屋根を指さして叫んだ。
「あんなところに人がいる! それも女だ!」
その言葉に、皆がいっせいに紅天楼の高い屋根を仰ぎ見た。
紅天楼は三階建てだが、無計画に増築を重ねてきた。それは屋根の形にもいえる。三階の屋根の上に尖塔がある。建物の中からは登れないその尖塔は、他の妓楼よりも高く目立たせたいと、何代目かの楼主が思いついて付け足したものだ。その尖塔にしがみつく格好で、白い髪の少女は天を仰いでいる。
英卓は馬から飛び降りて叫んだ。
「火を消せ! 逃げ遅れているものを助けろ!」
その声に、彼のあとに続いていた者たちも馬から飛び降り、頭から水を被ると紅天楼の中へと入っていく。
そして英卓自身は一階の庇の下まで走り寄ると、魁堂鉄を振りかえった。若い主人の視線を無言で受け止めた堂鉄は傍らに立つ黄徐平に剣を預けると、やおら着ているものを脱ぎ始める。紅天楼の屋根を見上げて騒ぎたてていた者たちの視線が、今度は堂鉄に注がれる。
彼は着物の下に着こんでいた鎖帷子も外し、裸の上半身を晒す。頭の上で結った髷を留ていた銀の簪も抜いたので、逞しく肉の盛り上がった肩にほどけた黒髪が広がった。背中にある幾つかある傷跡でさえ飾りと思えるような惚れ惚れとする巨躯だ。
堂鉄は英卓の目をひたと見つめ返すと静かに言った。
「お任せください。この腕に、白麗さまを無傷で受け止めます」
頷いた英卓は屋根の上の少女を見上げて叫ぶ。
「麗、飛び降りろ! 必ず、受け止める!」
しかし少女は天を仰いだままだ。逆巻き始めた風に木材の爆ぜる音が混じり、黒い煙に赤い炎の色が混じるのもすぐだろう。
――なぜだ? 声は届いているはずなのに、なぜ、麗は振り向かないのか?――
少女が見上げている真夏の中天には陽があった。それは紅天楼から噴き上げる煙にさえぎられて輝きを失い、天空に開いた穴となっている。
その穴から青い鱗を持った龍が一匹、舞い降りてきた。大人の龍の鱗は黒い。となると、それはまだ子どもの龍か。青龍は立ち昇る煙に身を隠すようにして、少女の頭上をゆっくりと旋回し始めた。その姿は少女がその背に飛び乗るのを促しているようだ。しかしそれは煙と見間違っているのかもしれない。しかし、このままでどうなるのか、それだけは彼にもわかる。
――おれは、麗を失うのか?――
失った左腕の付け根と火傷の痕が残る顔に、久しく忘れていた痛みを英卓は覚えた。少女が歩くことも出来ないほどに体を弱らせて治療した傷だ。
――なぜだ? なぜ、治ったはずの傷痕が痛む?――
右手で痛みの激しさが増す腕のない左肩を押えた。顔が苦痛に歪む。
――そうか、麗は、おれの体の半身なのか? 半身を失う辛さに傷が痛むのか?――
腹に力を込めて、再び、彼は叫んだ。
「麗! おれは甘いものなど嫌いだが、美味そうに食っているおまえの顔は可愛い。俺はそんなおまえが好きだ」
天を仰いでいた白麗が視線をゆっくりと下へと向ける。ことの成り行きを見守っていたものたちが、「おお!」と声を上げた。
「麗! おれは胸のたいらな女は好みではないが、おまえは例外にしてやってもよい。いずれ、おれの女にしてやろう。ありがたく思え!」
堂鉄が一歩進み、英卓の次の言葉のあとに起こるであろうことに備えた。
「飛び降りろ! 必ず、受け止める!」
その言葉に白麗が尖塔の陰より全身を現し、片足を瓦の上にそっと出す。しかしその足をすぐに引っ込めたのは、瓦が熱く焼けていたせいだろう。
「ためらうな!」
意を決した少女は瓦の上を駆け、瓦の途切れた屋根の端に達した最後の一歩で大きく跳躍した。見守っていた人々の悲鳴とどよめきの中、少女の白い髪が舞うように広がり、宙で少女の体がくるりと半転した。そして下で待ち構えていた男の太い両腕と逞しい裸の胸の中に落ちてきて、すとんと収まった。
堂鉄に抱きかかえられた白麗の顔を覗き込んで英卓は言う。
「このおれを死ぬほど心配させやがって。それにしても酷い顔だぞ。青い痣に赤い血に黒い煤汚れとは、まるで染物だ。これは康記に倍にして返さないとな」
そして安堵した彼は空を見上げる。黒雲の湧いた天へと青龍は帰って行く。それはやはり一筋の煙とも見えなくもない。
そのとき、空から雨粒がぽつりぽつりと落ちてきた。
助かった者たちが抱えられて紅天楼からぞろぞろと出てきた。その中に萬姜と春仙、そして康記もいた。
「堂鉄、先に行って、麗を馬車に乗せてくれ。おれはちょっとした野暮用を思い出した」
「承知!」
にこやかな顔で近づいてくる兄を見て、自分の無事を喜んでいるのだと康記は思った。左目の縁を赤く腫れあがらせ血まみれの鼻をした彼は駆け寄ると言った。
「英卓兄上、おれは何も悪くない。こうなったのはすべて白麗のせいなんだ」
どしゃぶりとなった雨に濡れそぼった顔で英卓が笑う。
「麗のやつ、なかなかによい仕事ぶりだ。気に入ったぞ。では、最後の仕上げをおれがしてやろう」
硬い拳が顔面にめり込み、康記の前歯が折れた。
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